『シン・ゴジラ』が見せる特撮のこれまでとこれから PART2

『シン・ゴジラ』で特撮班美術を担当した美術デザイナー、三池敏夫さん。前半では三池さんのプロフィール、特撮技術の基本的テクニックや特撮マンの資質についてお話しいただいた。後半では、テクニック面についてさらに掘り下げていきたい。 CGの進化とミニチュア特撮 特撮技術や撮影技術について何も知らない人間の立場から質問させていただくことにした。CGと特撮の境界線や組み合わせは、当然のことながら見ただけではわからない。『シン・ゴジラ』におけるCGと特撮の関係性はどのようなものだったのか。 「第二形態で川を遡って、係留してあるボートがひっくり返るシーンはほとんどCGです。車が押されるシーンもCGです」 CGとミニチュアの関連性について伺おうと思った理由は、今の若い世代の人たちが、「昔の『ゴーストバスターズ』のCGはショボい」というような感覚を持っているらしいことを知っていたからだ。 「あの頃は、まだCGはありませんね。今はCGが進歩したから、ミニチュアとか造形物で撮りきるよりも、狙ったニュアンスを後からいろいろ付けられるし、表現力はものすごくあります。10年以上前は、CGにも弱点がありました。たとえば『ジュラシック・パーク』ではなまめかしい恐竜が初めて表現できたけれども、流体とか煙、爆発や破壊といった物理現象に関しては、当時のCG技術ではまだまだでした。ディテールを省略した感じで嘘っぽく見えました。だけど、今は何でもできてしまいます。破壊シーンだって海の表現だって、僕らが見ても実写としか思えないレベルの仕上がりになります」 特撮のプロの目からみても、である。 「今ではまず見破れませんね。昔はどこか嘘っぽかったんです。『パーフェクト・ストーム』や『ディープ・インパクト』の時代までは、いかにもCGの海だなという感じがありましたが、2年前のアメリカ・ゴジラ(『GODZILLA ゴジラ』 2014年公開)くらいから見破れません。実物を撮っているような仕上がりです。今ではCGでできないことはないんですが、一方でCGにも弱点というか作り手にとって怖いところもあります」 怖いというのは、もっと詳しく言うとどんなことか。 「出来上がりの理想の画は見えていても、与えられた条件の中でそこに行きつく保証は何もないわけです。ミニチュアだったら、その場にある画はできているわけですから、最低限の保証があります。ミニチュアを超えるCGができればどんどん入れ替えるかもしれませんが、タイトなスケジュールで何百カットも仕上げる保険としては、最低限現場で撮った画があれば成立します。全部CGだったら、スタート時点では白紙からのスタートになるから、いいものになると保証できる人は誰もいません」 もちろん、CG慣れしているはずの今の若い人たちも、クオリティの高いCGと特撮との見きわめは難しいはずだ。ミニチュア特撮の見せ方について、現場でさまざまなアイデアが戦わされていることは想像に難くない。 「ミニチュア担当の理想としては、とにかく大きく作りたいという気持ちがあります。小さな物は、被写界深度やフォーカスの問題もあるし、作り込める限界もあります。なるべく大きく作りたいんですが、反面大きすぎると扱いにくいという問題が生まれてしまいます。制御できない部分が生まれて、芝居をさせられなくなってしまうんです」 より具体的に言えば、こういうことだ。 「たとえば、本物のゴジラの2分1スケールの模型を作ったとしても、動かせません。じゃあ3分の1や4分の1でどうかという話になるでしょうが、それでも大きすぎて技術的に無理なんです。戦車とか飛行機とかも2分の1スケールで作ればいいと思っても、それを走らせたり飛ばしたりという操作部分がついていかなくなります。スタジオの大きさの制約もあります。狙いの画に応じた適切なスケールというのがあって、大きくは作りたいけれども、ただ大きければいいというものではありません」 『シン・ゴジラ』では、まずゴジラが立っている姿を撮って、カメラを逆方向に振るとそこに自衛隊のヘリがホバリングしているシーンがある。このシーンに限っての話、CGと特撮の割合が気になった。 「全部CGです。昔は、俳優さんが怪獣の中に入るスタイルで撮っていて、怪獣に関する画は特撮班だけで作っていました。そうなると、ビルだったり山だったり、怪獣の大きさに合ったスケールのミニチュアセットが必要だったわけです。CGゴジラは実景の中に入れればいいので、ミニチュアを飾る必要はありません。それに、昔は実景の中にゴジラというパターンのマッチングがものすごく難しかったんです」 特撮映画のひとつひとつのシーンは、一般人の想像をはるかに超えるデリカシーの上に成り立っている。 「移動ショットで、たとえば動くものが奥にある時に、画面手前の電柱の細い線などを違和感なく合成するというのは基本無理でした。でも今はデジタルなので、できるようになりました。実物の電柱、電線の奥に合成というのができちゃうわけです。昔はそういうことができなかったから、ミニチュアで電線も張って同時に撮らないとだめでした」 ミニチュア特撮の必要性 今でも、どうしてもミニチュアが必要な場面はあるはずだ。ミニチュア技術の見せどころ。そんな言い方もできるだろう。 「ありますね。今回は絞り込んだ画しかやってないですけど、ゴジラの第二形態が突き破る建物は、10分の1スケールのミニチュアです。あと、民家の瓦は本物と同じように一枚一枚作りました。この映画は、そういうレベルのミニチュアにしないと許されませんでした。崩れ方がリアルにならないんです。昔は、25分の1スケールのミニチュアだったらつながった一枚の板で抜いて、上からぐしゃっと潰すという方法もありましたが、10分の1では、つながった瓦なんかありえません。壊れ方を見ていただくと、よく分かっていただけると思います」 このあたりの話は、PART1で紹介したオフィスとか団地の一室のミニチュアが使われたシーンにつながる。ただ、気持ちを込めて作ったセットが使われないまま終わってしまうことも少なくなかったようだ。 「今回は多かったですよ。そういう意味での敗北感はかなりありますね。ミニチュアじゃないとできないよね、ということはないんです。さっきの4分の1スケールのセットも、CGでできないことはありません。ただ、CGだけで作るとなるとものすごい労力だと思います」 現場で映像に関わる人たちの間では、CG班対ミニチュア特撮班みたいな対決基軸があるのだろうか。 「みんなどっちがいいかみたいなことを言うけれど、今はそれぞれの長短を活かした共同作業なので、敵味方みたいな感覚はあまりないですね。それぞれの得意分野があって、これはこっちがやった方がよりうまくいくだろうというような考え方で取捨選択を行っています」 ちょっと大きな話になるが、これから先の特撮についてもうかがっておきたい。 「僕はCGも含めて特撮だと思っているので、そういう意味では、今後もSF映画や特撮映画はどんどん作られるだろうし、いい映画もできると思います。ただ、ミニチュア特撮ということになると、衰退していくと思います。プロデューサーがお金をかけてもミニチュアでやろうとか、監督がミニチュアで撮影することを主張しない限りは、消滅していくしかないですね。安く良くできるとなれば、選択肢としてはCGに流れるでしょう」 映画作りの現場では、今の時代は効率化のためにここはCG、ここはミニチュア特撮という形のようだ。ただ、将来は技術的な進歩で何の問題もなくCGでということになるらしい。 「技術的には、日本でもできます。『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦の高層ビルの倒壊は全部CGです。合成素材は現場でも撮っていますが、ビルの破片が飛ぶとか、煙もほぼCGです。CGで全部やるのは可能ではあるけれど、日本映画の制約の中でCG班が全部やるのは大変なことです」 言うまでもないだろうが、CGで作るシーンには、ものがぶつかり合う際の複雑な動きを指定する繊細なプログラミングが必要となる。 「そこでミニチュアで手助けするということです。役割として少しでも貢献できればという思いなんです。プロデューサーが今回は全部CGでということになれば、ミニチュアは切り捨てられる部分です。それくらいの力関係になっています。結論として、ミニチュアは今後もずっとやれますよとは言えないくらいのところに来ています」 情報発信機能を併せ持つアーカイブセンター でも、これまで培われてきた技術やノウハウは、何らかの形で残されなければならないはずだ。特撮アーカイブセンターという施設ができるという話がある。この施設についてもお話しいただいた。 「まだ公式ではないので私の願望を言いますと、まずはものを残したいということです。そして図面やデザイン、写真関係や造形物とミニチュアだけではなく、技術を残していきたいんです。技術を文字情報だけで残すことは不可能です。実践を続けなければならなくて、そうなると小規模でもいいからミニチュア特撮を作る現場を維持したいというのが願いです。アーカイブセンターは、保存場所を確保するところから始まるんですが、将来的には短編でもいいから新作を作りたいですね。『巨神兵東京に現わる』がいいサンプルですね」 〝これまで〟を見せながら、〝これから〟を発信していくことになるのだろう。 「ああいう形で、少しでも新しい技術を取り込んだ短編を定期的に製作できればいいなというのが、理想的な思いです。ジブリ美術館も、昔のものも展示するけれども、新しいものも作って、あそこでしか見られない作品を公開しています。もし特撮博物館ができれば、そういう形で、アーカイブセンターであり、かつ新作発信の拠点になればいいなあと思っています。まだ〝いいなあ〟なんです。最終的にはそういうことを目指したいということです。古いものを展示するだけだったら、一度見れば終わりです。だから新しいものをどんどんリニューアルしていって、リピーターを増やす施設にしなければいけないと思います」 最後に、印象的なひと言をいただいた。 「僕らの世代は大体の人間が好きでこの世界に入っています。現場では危険がつきまといますが、でも、それが楽しいわけですよ。すべてを含めて楽しいんです」 特撮現場のベースにあるのは、楽しさなのだ。三池さんも、いかにも楽しそうに話してくれた。そして現場の楽しさは、スクリーンを見て「すごいな」とか「よくできてるな」とか、「えっ!? 本物じゃないの?」と思う人々を通じて広がっていくのだろう。楽しげな特撮マンのモテ期、確かに来ている感じです。

『シン・ゴジラ』が見せる特撮のこれまでとこれから PART1

2016年7月29日に公開された『シン・ゴジラ』の勢いが止まらない。公開後17日間で観客動員230万人、興行収入33憶8200万円を突破し(oricon.co.jp 8月18日付)、40日後には観客動員420万人、興行収入61億円という数字を叩き出した(cinemacafe.net 9月7日付)。今回のゴジラの身長は118.5メートルで歴代最大だが、観客動員数および興行収入においてもシリーズ最大値を記録したわけだ。   作る側も予測できなかった女性からの支持 邦画史上最大級のヒットとなった『シン・ゴジラ』で特撮美術を担当された三池敏夫さんからお話を伺う機会を得た。きわめて大まかではあるが、まずは三池さんのキャリアを紹介しておく。 九州大学工学部を卒業後(株)特撮研究所に入社し、CMの現場を経て『超電子バイオマン劇場版』『宇宙刑事シャイダー劇場版』『上海バンスキング』で特殊美術助手を務め、その後『ガンヘッド』(1989)から『ゴジラVSモスラ』(1992)までの東宝特撮作品で美術助手兼操演助手を担当。 〝特撮デザイナー〟としての揺るぎない地位を築いたのは『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995)、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)、そして『ガメラ3 邪神(イリス)覚醒』(1999)の平成ガメラ3部作である。緻密に飾り込まれたミニチュア群は、今でも特撮映画ファンの語り草となっている。 『シン・ゴジラ』が歴代ゴジラ映画と決定的に違うのは、女性観客の動員数だ。筆者が観に行った時も、一人で観に来ている20代から30代の女性が目立っていた。公開直後から続くこうした傾向は、作る側の三池さんも予想できなかったようだ。 「台本読んで、女性客と子供客を呼ぶのは難しいだろうなと思いました。ところが女性客が多いと聞いてびっくりですよ。これは予測できませんでした。期待して来てくれて、しかも面白いと言ってくれます」 映画の公開に合わせて福岡市美術館で行われ、三池さんの講演活動の場ともなったゴジラ展も62000人もの入場者を集めた。 「『シン・ゴジラ』効果はやはり大きくて、映画を観たから行ってみようという人もたくさんいました。ファン層も広がり、展示を見に来てくれる人たちの中でも女性が多かったです。今までは握手といえば同世代男子だけだったんですが、若い女性から握手を求められることが増えて、特撮マンのモテ期が来ました(笑)。だけどなぜ女性に受け容れられたのか、わからないです」 いかにもベタなきっかけで申し訳なかったのだが、まず、手を見せていただいた。精巧なミニチュアを作る人の手はピアニストのように違いない。勝手にそう思い込んでいたからだ。でも、まったく違った。三池さんの手は、ピアニストというよりも刀鍛冶――とは言え、もちろん実際に見たことはないのだけれど――を想起させる。 「小中学生の頃は器用で、手も細くてプラモ作りも得意だったんですが、だんだんごっつくなっちゃって…。まあ、器用さは今でも自慢なんですが、指先では限界なんでピンセットとか使ってます」 特撮カルチャーの芽はプラモ少年たちが育む 特に昭和生まれなら、プラモデルを作ったことはないという男の子はいないはずだ。このあたりに、日本特有の特撮カルチャーの芽があるのかもしれない。三池さんも、「10人中8~9人がプラモデルを作れるというレベルでは、世界の中でも日本人は手先が器用な民族かもしれない」と話している。 「最初はプラモで、あと自分オリジナルのジオラマなんかも作っていました。当時はカラー粘土も出てきていました。学童用の油粘土からスタートして、そのうちカラーのプラスチック粘土というのが出だして、混ぜるとどんな色になるのかな、なんて思いながらいじってました」 今の仕事と直接的な形でつながるものに出会ったのは、中学生時代だった。「ハセガワというメーカーのプラモデルのジオラマでした。72分の1スケールのジオラマキットが売られていたんです。緑色のパウダーを木工用ボンドで貼り付けたりして。たしか建物自体もキットに入っていたような気がします。そんなところからセット作り的なことを始めました」 筆者の年齢は三池さんのひとつ下。物心ついた頃見ていた空想特撮映画や番組はかなり重なる。 「最初に観た特撮映画は『サンダ対ガイラ』です。5歳でした。あの作品はリバイバルがなかったから、間違いなくその時に観ています。それ以外の東宝怪獣映画は、『チャンピオンまつり』というイベント性の強い再上映でやることが多かったので、時期的にはリアルタイムではないかもしれないけれども、よく見た記憶はあります。『怪獣総進撃』は『ゴジラ電撃大作戦』という題名で観ています。あとは特撮ではないけれど、『東映まんがまつり』で東映のアニメーション作品もたくさん観ました」 タイトル名もイベント名も懐かしい。第一次怪獣ブームという言葉で表現される時代区分である。 「1966年だから、もう50年も前です。『ウルトラQ』がスタートして、同時期に『マグマ大使』が放送されて、東映も『悪魔くん』を始めて、翌年『キャプテンウルトラ』とか『ジャイアントロボ』が始まりました。それで『ガメラ』や『ガメラ対バルゴン』があって…。だけど『大魔神』は怖かったので、大学生になるまで観ませんでした」 映画を仕事として意識したのは、高校3年生の頃だったという。 「その時期、進路指導をやるでしょう? 正直に考えたら、自分は映画の仕事をやりたいと思ったんです。でも、特撮というジャンルに絞り込んでいたわけではありません。映画全般、そしてアニメーションもいいなと感じていました。当時は『宇宙戦艦ヤマト』以降のアニメブーム、そして『スター・ウォーズ』以降の洋画特撮ブームでもありました。実は、日本の特撮映画はこの時代、僕らが就職したいと思っていた頃は停滞期を迎えていたんです。同じ頃宮崎駿さんの『未来少年コナン』をNHKでやっていて、ものすごい刺激を受けました。アニメか特撮、どっちかという感じでした」 特撮か。アニメか。決め手となったのは、制作過程に感じる魅力、ひとことで言えば〝楽しさ〟だった。 「〝ひどい特撮〟には愛着が持てるけれども、〝ひどいアニメ〟は嫌だなと思いました。それが最低限の基準です。特撮だったら、お金なさそうな作品でも楽しくやれるかなと思えました」 特撮マンとしてのキャリアは、次のように始まった。 「僕は東映に押しかけて、こういう仕事をやりたいって言って入りました。当時は、そういうやり方しかなかったんです。募集も採用試験もないわけですよ。東宝は本社採用をしていましたが、社員になったからといって、撮影現場に行けるとは限らなかったんです。それよりはストレートに現場に働きかけて、もぐり込むのが一番でした」 ミニチュア特撮の現場から 『シン・ゴジラ』を軸に話を進めながら、撮影現場のミニチュアセットの写真を見せていただいた。精緻なんていうレベルの言葉では形容できないリアリティだ。 「『シン・ゴジラ』で、建物全体が斜めになってオフィス家具が流れていくシーンで使ったミニチュアは4分の1スケールです。オフィスを作って、これをシーソーみたいに斜めにして撮りました。これは今回のミニチュアの中でお金と時間が一番かかりましたね。団地の一室の家具も全部ミニチュアです。これも4分の1スケールです。ソファも、壁に並行じゃなくて、テレビの画面がまっすぐ見られる角度に置いてあります。このスケールでこういうことをやるというのは、ミニチュア特撮ではとても贅沢なんです」 リアリティとは、どんな細部であっても気も手も抜かないという意味である。 「今回大変だったのは、ものがどうひっくり返るのかわからないので、どの方向から見ても完全な外見にしなければならなかったことです。通常は、カメラから見えない側は作りません。今回は全部転がるから、細部まで作り込んでおく必要がありました。例えばコピー機がひっくり返って裏側が見えた時に、ミニチュアとばれてしまうような作りではいけないわけです。キャスター椅子もどう転がるかわからないし、小物関係も一方向ではない動きを想定しました。棚もどう崩れるかわからないから、中に入っている箱とかファイルとか全部ひとつずつ作ってあります」 たとえば、手前に街燈とか街路樹があって、その奥に家とか雑居ビルが広がり一番奥にゴジラが立っている画を想像してください。すべてをひとつの画面に収めたい時はどうするか。 「それぞれの大きさを変えます。怪獣映画の基本は25分の1ですが、画面手前の街燈なんかは10分の1とか15分の1で大きく作ります。小さいものをカメラに近づけようとするとぼやけてしまうので、カメラからの距離は、被写界深度(ピントが合っているように見える被写体側の距離の範囲)を考えると、なるべく離します。カメラからは離れているけれども画面では大きく見せる必要があります。ライトをいっぱい当てて絞り込むというのが特撮の基本です」 遠近が自然に見える画面を完成させるには、どのくらいの数の要素を計算に入れなければならないのか? 「最終的には、美術をやってきた長年の勘が頼りになります。たとえば怪獣の足元に巨大な電柱は置けません。それでは画が成立しなくなってしまうので、せいぜい10分の1程度ということになります。こういう考え方は、僕らの先輩方が、昭和の特撮をやり始めた時からあるもので、最初のゴジラ、1954年製作の『ゴジラ』でも街灯の大きさで遠近をつけるという方法はもうやっています」 今の若い世代には、昔ながらの特撮を志す人たちはたくさんいるのだろうか? 具体的な指標として、『シン・ゴジラ』のクルーの平均年齢はどのくらいだったのか? 「今回はかなり若返らせました。アルバイトで来ていた学生も含めると、28~29歳ですね。12年前の『ゴジラ FINAL WARS』までは、無難にやるために少数精鋭でベテランを揃えましたが、同じ年代の人間がいつまでも同じポジションにいたら、下の人間が経験を積めなくなってしまいます。だから5年ぐらい前から意図的に若手を使うようにしました。その分、上の人間の負担が大きくなってしまいましたが、僕らの後継者が少しでも経験できるようにと思いました」 特撮を志す人の適正をあえて挙げるなら、忍耐力だという。 「取り組み方で言うと、作業に延々と時間をかけることに対しての忍耐力があるとかの適正はあります。忍耐力は大事です。特撮は準備に3時間とか4時間かけて、本番は10秒で終わるなんていうことばかりです」ただ、今の時代の映画にCGが多用されていることは一般常識化している。『シン・ゴジラ』においての特撮、もっと詳しく言うならミニチュア特撮とCGはどんな関係性にあったのか。この原稿の後半で、さらに掘り下げて話していただくことにする。(PART2に続く)

女子大生250人の尿を検査した結果

女子大生250人分の尿を集めた人がいる。集めたのはその女子大学の先生で、なんのためかというと、研究のためである。日本人の長寿の一因として挙げられる大豆をどれだけ彼女たちが食べているかを、尿中のイソフラボン量で調査したのだ。すると驚くべきことがわかった。なんと彼女達は、ほとんど大豆を食べていなかったのである。   大豆のおそるべきパワー 『大豆は世界を救う』(家森幸男・著/法研・刊)に書かれた実験によると、脳卒中を発病したラットは生後100日までに残らず死んでしまうという。けれど、そのラットに大豆たんぱく質を含むエサを与えると、寿命は2倍に延びたそうだ。また、更年期になったラットに大豆の胚芽を混ぜたエサを与えると、毛ヅヤが良くなり、肥満もなくなり、骨粗鬆症も起きにくくなり、若返りの傾向が見受けられたという。更年期近くなり、毛ヅヤが悪くなり、肥えてきた自分には聞き捨てならない話である。 著者である家森幸男さんは、世界数十カ国で大豆の摂取量の調査を行った。その結果わかったのは、大豆がよく食べられている地域では、住民の血圧とコレステロール値が低く、肥満が少なく、かつ心臓病による死亡が少ないというものだった。大豆には血管を若々しく保つ効果があるのだそうだ。普段大豆を食べない国の更年期以降の女性に大豆胚芽のふりかけなどを食べ続けてもらったら、3週間を過ぎる頃から、血圧や血中コレステロール値が低下して正常化し、骨からカルシウムが溶け出しづらくなった(つまり骨粗鬆症になりにくくなった)という。 女子大生はなぜ大豆を食べないのか 実は私は最近、小麦粉を食べない「グルテンフリーダイエット」に挑戦している。1カ月が過ぎ、体重は2キロ落ち、明らかに手足のラインが前よりもほっそりした。そして何より身体のむくみが取れ、身体がすごく軽い。小麦粉を抜くと、パン、パイ、ケーキ、ピザ、パスタなどの麺類など、かなり多くのものを食べられなくなる。けれど今は米粉や大豆粉などで代用品がたくさん作られている。私は今、米粉のパンをトーストしたり、おから麺パスタにバジルクリームをかけたりして、暮らしている。 女子大生達はオシャレだ。食事も、カフェでパンケーキやロールケーキだったり、イタリアンレストランでピザとパスタだったり、メニューに小麦粉がたっぷり使われているものが多い。目の前に美味しそうなものが山のようにあるのだから、地味な和食は毎日どころか時々しか選ばれない。そのため彼女たちの尿中には、大豆成分がほとんど含まれていない、つまり食べていないのだ。なので、このままでは日本人の寿命は短くなりかねない事態なのだという。 大豆を毎日摂る方法 私が小麦粉を抜いて結構困ったのがおやつで、ナッツやドライフルーツやせんべいなどで済ますのだけれど、助かったのが大豆粉で作った栄養補助食品「ソイジョイ」だった。粉で作っているので、小麦粉と同じような食べ応えがある。外食では、イタリアンや洋食よりは和食やアジア料理を選ぶことが増えた。小麦を使ったスープではなく、自然と味噌汁を飲む回数が増えた。本によると、味噌汁を毎日飲む人は、ほとんど飲まない人よりも乳がん発生率が40%も低いというので、私は健康になっていってるのかもしれない。 著者は大豆パウダーを配ったり、大豆を練り込んだパンを作ったりして、大豆を食べない国の人たちの健康状態を少しでも上げようと活動されている。外国の人は味噌や醤油もあまり使わないので、大豆を食べるクセすらついていないのだ。私は「打ち豆」という北陸などで使われている、カナヅチなどの硬いもので大豆をぺったんこに潰したものを最近愛用している。すぐ戻るので、コーンのようにスープやごはんに入れても美味しいし、煮物や炒め物にも混ぜられる万能っぷりだ。大豆のおかげなのか、ダイエット効果なのか、最近いろいろな人に「若くなった?」と言われる。同時に「彼氏できた?」とも聞かれるけれど、できてません。 日本人は縄文時代から大豆を栽培してきた。代々好まれてきたこの味を忘れることなく取り入れ続けていく方法を提案しくことが、今後さらに必要となってくるかもしれない。グルテンフリーダイエットは流行り始めているようなので、小麦粉の代わりを求める女子大生が、私のように大豆を口にする機会が増えることを期待したいところだ。

やっぱりスゴイ! 万能食材「梅」で、夏バテ知らず

クエン酸が豊富な梅は、疲労回復や血液サラサラ効果などうれしい効果がいっぱい! 健康にいいことはよく知られていますが、改めて探るとそのパワー絶大です。これからの暑い季節は特に、夏バテや熱中症予防、食中毒防止に……と頼れる食べ物です。    梅といえば、紀州。その歴史は、江戸時代から 梅には、400以上の品種があり、主に花を楽しむものを「花梅(はなうめ)」、実を楽しむものを「実梅(みうめ)」と言います。各地で、さまざまな品種が栽培されていますが、一番栽培が盛んなのは「和歌山県」。全国の収穫量約65%を占めているそうです。和歌山県が梅の産地になったのは、江戸時代から。この土地は、イネが育ちにくい環境だったことから藩主が梅の栽培をすすめたため、盛んになったのだとか。やがて、紀州の梅干しは品質がよいことから江戸でも評判になり、この当時から、「梅」といえば「紀州」というほど、名産地だったようです。  疲労回復、食中毒予防……。梅のパワーに注目! 「平安時代、村上天皇は梅干しと昆布茶で病を治した」と言い伝えがあったり、現存する日本最古の医学書『医心方』には、薬として紹介されているなど、昔から体にいい食べ物として広められてきた「梅干し」。実際、どのような効果があるか、『梅パワーのひみつ』(田川滋・漫画、橘悠紀・構成/学研プラス・刊)から、チェックしてみましょう。 ●食中毒予防梅に含まれるクエン酸には、ブドウ球菌や大腸菌など食中毒の原因となる菌が増えるのを抑える働きがある。●疲労回復効果クエン酸が疲れの原因といわれる「乳酸」を炭酸ガスと水に分解し、体外へ出す働きがある。●糖尿病予防血液の血糖値が上がると、糖尿病などの原因に。梅に含まれる、オレアノール酸が糖質や消化吸収をゆっくりにし、食後に急に血糖値が上がるのを防ぎます。●血液サラサラ効果クエン酸が血液をドロドロにする脂質を減らし、血液をサラサラに。●高血圧予防カリウムが血圧が上がるのを抑え、高血圧が招く脳梗塞や心筋梗塞を予防。●インフルエンザ予防梅エキスに含まれるムメフラールがインフルエンザウイルスを増やさない働きをして、ウイルス感染を予防。●胃炎、胃がん予防胃炎や胃がんの原因となるヘリコバクター・ピロリの活動を抑える働きがある。 その他、クエン酸には虫歯の原因となる菌の活動を抑える働き、カルシウムの吸収を助ける働きなども。また、梅干しの香り成分には、痛みを鎮静、軽減する効果などもあると言われています。 簡単にできる! さっぱり美味しい梅レシピ 梅といえば、やっぱり「梅干し」。そのまま食べるだけでなく、アレンジレシピもオススメ。すぐにできる簡単レシピをご紹介!◆梅ごはん(4人分)炊飯器に米(4合)を入れ、水加減は普通にして、減塩していない梅干し(大2個程度)を一緒に入れてそのまま炊けばOK。炊きあがったら種を除き、軽く混ぜ合わせ、好みで千切りにした青じそを散らして。 ◆梅ドレッシング種を取り除き、包丁でたたいた梅干し(1個)、水にさらした玉ねぎのみじん切り(大さじ1)、マヨネーズ(大さじ1)、はちみつ(小さじ1)、こしょう(少々)を混ぜれば出来あがり。 また、梅を使ったジュースも簡単。炭酸水で割れば梅ソーダに、牛乳で割ればヨーグルト風味のジュースとして美味しくいただけます。甘酸っぱい梅ジュースは、蒸し暑い季節にもぴったり!◆梅ジュースまず、梅(1㎏)を水洗いして、軽く水気を切ったら、冷凍庫で24時間以上凍らせる。熱消毒した3L入りの広口びんに、氷砂糖(1㎏分)と梅を交互に入れてふたをしっかり閉める。しだいに氷砂糖が溶けていき、約7日すると出来上がり。梅の実を取り出し、約80℃で15分加熱して別の容器に移し変えて、冷蔵庫保存を。4倍の水や炭酸水、牛乳などでうすめると美味しく飲めます。ちなみに、作る際に焼酎も加え、3ヵ月ほど置けば梅酒に! また、梅干しというと塩分が気になりますが、梅に含まれるカリウムには塩分を体外に出す働きが。もちろん、食べ過ぎはよくないですが、思ったほど塩分取り過ぎにはならないようです。 一粒に健康パワーをたっぷり含む梅を味方に、夏を乗り切りましょう!

学校給食「牛乳廃止」の衝撃

平成25年度における「児童・生徒1人当たりの給食食べ残し」は、年間で7.1キログラムだった。学校で出された給食の約1割が食べ残されている。(環境省調べ) 「給食の食べ残し」を減らすことは重要な課題だ。食べ残しがあると、文部科学省が定める「栄養摂取基準」を下回ってしまうからだ。食べ残すような給食内容では、子どもの健康維持や成長が危うくなってしまう。 食べ残しの原因はさまざまだ。ピーマン、ネギ、ブロッコリーなどの嫌いな野菜を残す。いまの子どもは「家庭で食べたことがない和食料理」に手をつけない。「給食時間が短いせいで食べ残してしまう」という意見もある。 食べ残しだけでなく、給食で出される「牛乳」も飲み残しが多い。乳製品にふくまれるカルシウムは骨の成長に欠かせないものだから、牛乳の飲み残しは改善すべき問題だ。 牛乳が学校給食に出される理由 給食のフォーマットは法律で決まっている。日本の小中学校で出されるものは「完全給食」と定義づけられているものだ。 完全給食とは、給食内容がパン又は米飯(これらに準ずる小麦粉食品、米加工食品その他の食品を含む。)、ミルク及びおかずである給食をいう。 (『学校給食法施行規則』から引用) つまり、牛乳(ミルク)がなければ「完全給食」と認められない。いまの学校給食法は、一般市民の感覚とズレているのではないか? じつは、必ずしもそうとは言い切れない。 完全給食(ミルク必須)の歴史 日本の法律で「ミルク」が重要視されている理由は、終戦~昭和25年ごろまでの学校給食が「スープ類とミルク(脱脂粉乳)」のみであったからだ。米飯どころかパンも無かった。当時の「ミルク」は、給食における最上位の栄養源だった。 学校給食法が定められた昭和29年の前後からは、給食メニューに「パン」が登場する。コッペパン、揚げパン、食パン、昭和40年代からはソフト麺も登場して、子どもたちの空腹を満たせるようになってきた。 昭和50年までの給食は「パン」や「麺類」が主流だった。学校給食法の「完全給食(ミルク必須)」の規程に違和感はなかった。 しかし、昭和51年から「米飯給食」が始まったことにより、学校給食におけるミルク(牛乳)の立場がビミョーになってきた。カルシウムをふくむ食材としては有用だが、米飯や米飯向けのおかずと相性が良くないからだ。 いまでは、平均で週3回の米飯給食が実施されている。全国の95%が米飯給食に移行している現状においては「学校給食に牛乳は不要」という意見も出てきた。 2015年に大きな動きがあった。「お米と牛乳の相性は良くない」「牛乳のせいで米飯給食を食べ残すのではないか」という観点から、完全給食(ミルク付き給食)を廃止した地方自治体が現れたのだ。 「牛乳廃止」の衝撃 現行の給食制度に一石を投じたのは、新潟県三条市だ。市内の小中学校あわせて30校で「牛乳抜きの完全米飯給食」を実施している。週5回すべて米飯メニューであり、牛乳ビンや牛乳パックの姿は見当たらない。コメ生産量が日本一の新潟県ならではの事例といえる。 三条市のチャレンジは、平成15年(2003年)にさかのぼる。このときから「原則米飯給食(月に1~2回だけパンや麺類が出る)」を開始した。まだ牛乳は出ていたが、せっかく地元がコメの名産地なのだから、パンや麺類ではなく、子どもたちに米飯を食べてもらおうという想いがあった。 平成20年(2008年)からは、ついに「完全米飯給食」を開始した。主食からパンや麺類が完全に姿を消したのだ。じつは、このときも牛乳を廃止することはできなかった。学校給食法に罰則はないが、戦後の慣習である「完全給食(ミルク必須)」を無視するのは難しいからだ。カルシウム摂取量の問題もあった。 そして、平成26年(2014年)の12月。三条市は、試験的に4ヶ月間だけ学校給食における牛乳提供を停止する。子どもたちの反応や市民から寄せられた意見を参考にして、ついに三条市は「完全給食(ミルク必須)」の廃止を決断する。NHKニュースや新聞各紙で報じられたので話題になった。 平成27年(2015年)4月からは、三条市の小中学生は給食の時間に牛乳を飲まなくても良くなった。おかずの内容を見ると、カルシウムが多いとされている小松菜がほぼ毎日のように採用されている。ほかにも「ワカメ」「ひじき」「ちりめんじゃこ」や、味噌汁に煮干し粉を入れる、野菜がすくないキーマカレーの日には「フルーツのヨーグルトあえ」を出すなど、カルシウム摂取のための工夫をおこなっている。 具体的な給食メニューは、三条市が毎月発表している「給食だより」にて誰でも確認できる。 小中学校 給食だより – 三条市 上記リンクにアクセスすると、三条市内で児童数がもっとも多い嵐南小学校(約900人)と第一中学校(約500人)の給食献立をPDFファイルにて閲覧できる。たしかに「牛乳」が見当たらない。なかには、米飯にそぐわない「シチュー」「チーズ」もあるが、すべては子どもたちの成長と健康のためだ。給食の食べ残しは減ったという。 三条市の給食 食べ残しが減少|新潟日報モア 三条市がコメの名産地であるからといって、三条市の人たちがパン給食や牛乳を憎んでいるわけではない。じつは、いまでも三条市の子どもたちは学校で牛乳を飲んでいる。廃止したはずではないか? 種明かしをすれば、三条市では「ドリンクタイム」を実施しているからだ。給食以外の時間に、学校で牛乳を飲んでもらおうという新しい試みだ。 ドリンクタイムの長所と短所 現在では、全国の5%ほどの小中学校が「週5回の米飯給食」を実施している。三条市にかぎらず、給食から牛乳をはずす「ドリンクタイム」という仕組みは、全国の教育現場でも採用例がある。 10年間にわたって学校給食の現場を調べたルポタージュ集『吉原ひろこの学校給食食べ歩記〈3〉食べ残し編』(吉原ひろこ・著/サテマガ・ビー・アイ・刊)によれば、ドリンクタイムは一定の成果をあげているという。たとえば、汗をかいた体育授業の後に提供することで飲み残しが減ったという。 ただし、ドリンクタイムも万能ではない。吉原さんのルポタージュによれば、昼休み後に提供したものの「おなかいっぱいで飲めない」という声があった。女子児童のあいだで「牛乳は太るらしい」という説がまことしやかにささやかれていたり。 牛乳の飲み残しや給食の食べ残しは、一朝一夕には解決しないようだ。いずれにしても、新潟県三条市がいままでの学校給食のありかたに一石を投じたのは良かったと思う。将来、日本国内において牛乳の供給が途絶えたときのためのノウハウ蓄積にもなる。 子どもたちが口に入れるものだから、学校給食について議論したり試行錯誤をしすぎるということはない。

中国人を雇う前に知っておきたいこと

中国人の労働者をよく見かける。飲食店やコンビニでは当たりまえのように留学生らしき若者が働いている。顔つきは日本人と変わらない。しかし、名札や言葉づかいで気がつく。 かれらは有能だ。そうでない人もいるが、日本のアルバイト労働をそつなくこなす人がほとんどだ。母国語と日本語の2ヶ国語以上を理解して、しかも働いていないときは勉強をしているのだから、知力や学習能力については推して知るべしだ。 日本国内で見かける中国人留学生には勤勉で優秀な人が多いようだ。だからといって中国の若者すべてが同じように有能であるとは限らない。留学生はふるいにかけられているが、中国本土にいる若者はまさに玉石混交であるからだ。 中国ビジネスにおける人材育成の実態を知るためにうってつけの本がある。『なんで私が中国に!?』(日野トミー・著/イースト・プレス・刊)は、陝西省西安市で100人体制のアニメスタジオを新設したときの体験をコミックエッセイ形式で記録したものだ。   面接はドタキャンや途中退席あたりまえ 著者の日野トミーさんは、日本人のアニメクリエイターだ。あるとき、会社から中国行きを命じられる。新スタジオの立ち上げメンバーに選ばれたからだ。 日野さんに与えられたミッションは、中国本土で放映される子供向けアニメを制作するため、わずか3ヶ月のあいだに100人体制の制作ラインを構築することだった。 すでに現地での拠点づくりは済んでおり、人材の採用とチーム育成が日野さんの仕事だ。求人募集をおこなったところ、つぎつぎと履歴書が送られてきたという。 しかし、面接に来ない。応募者の半数がドタキャンするからだ。いまの中国では珍しくない光景だ。なぜなら、中国のイマドキの若者とは「90后(ジュウリンホウ)」と呼ばれる世代であるからだ。 1990年代に生まれたかれらは激しい学歴社会を通過してきたので、自分の市場価値について不安を抱えがちだという。だから、興味がない会社にも履歴書を送りつけて、書類選考に通過したことを精神安定剤がわりにしている。 たとえ面接にやってきたとしても、1時間以上の遅刻はあたりまえ。試験の途中でいなくなる。人口が多いので応募も多いのだが、そのぶんノイズも増えるので、採用コストは日本の数倍にもなりそうだ。 就業時間なのに仕事以外のことを優先する アニメ制作は専門職だが、単純な作業も多い。だから飽きてしまう。仕事なので飽きてもやらなければいけないが、日野さんのアニメスタジオで働いていた中国人は「仕事だからガマンする」ということができなかった。 日野さんのアニメスタジオでは、就業時間中に居眠りをする中国人が多かったという。パソコンでアニメを視聴していたり、ケータイで談笑しはじめたり、届け出もせずに勝手に早退したり。当然、スケジュール通りに仕事が進まなくなる。 どうするか? 中国では、すぐにクビにする。そんな状況が日常茶飯事なので、人の入れ替わりがとても激しい。 ミスや不手際を指摘したら言い訳をはじめる また、とにかく言い訳が多い。日野さんのアニメスタジオで働いていた中国人は、ありとあらゆる理由をつけて自己正当化した。 頼んでいた仕事を忘れていたことを指摘すると「さっき停電したせい」「ほかにやることがあったから」など、すごい剣幕でまくしたてるように反論する。しまいには「お腹が痛かったせい」などと幼児じみた言い訳をはじめる。 ほかにも、課せられた業務を放り出して帰ろうとした従業員を呼び止めると「きょうは実家に帰らなければいけない。バスに間に合わないのでこれ以上は仕事ができない」と言い訳をはじめたという。事前連絡ということを知らないようだ。 デキる中国人を見つけてリーダーを任せる 日野さんのアニメスタジオは中国の西安にある。旧名は長安であり、近郊には秦の始皇帝稜がある。有名な兵馬俑を一目見ようと世界中から観光客が訪れるにぎやかな土地だ。 中国アニメ産業の本場は、北京や上海であるとされている。西安市も行政がクリエイティブ産業に対して優遇政策をおこなっているものの、本場に比べて圧倒的にアニメーター人材が不足していた。 日野さんのアニメスタジオがある西安周辺にまったく人材がいないかといえば、そうではない。北京や上海から経験豊富なアニメーターが引っ越してくることがあるからだ。事情はさまざまだが、なかには「彼女が西安に住んでいるから北京の住まいを引き払って追っかけてきた」という優秀なアニメーターもいた。 玉石混交の「石」ばかりを引かされていた日野さんにとって、優秀なワケあり中国人アニメーターは絶対に獲得したい人材だった。制作スキルを買っているのはもちろんのこと、現場の中国人たちを統率するためには、信頼のおける中国人リーダーが欠かせないからだ。 「彼女の尻を追っかけて来た」という男性アニメーターは、見事に100人体制の要(かなめ)となってくれた。ほかの中国人たちとも、時間をかけて共に働くうちにチームワークを築くことができたという。 文化や歴史認識にちがいはあるけれど、おなじ人間なのだから、一緒に働くうちにいつか通じあえる。中国人にかかわらず、異文化に対しては「おおらかな気持ち」と「気長な心がまえ」が欠かせないようだ。

芸能人や企業の謝罪会見は、日本独特の文化だった!?

今年は新年早々、芸能ニュースの話題が沸騰した。まだ3ヶ月しか経っていないというのに、1年分に相当するくらいの話題を提供したといえるのではないだろうか。SMAPの解散問題にはじまり、ベッキーの不倫問題など、世間に衝撃を与える出来事が相次いだ。そういえば自民党の宮崎謙介衆議院議員(当時)の不倫の問題も記憶に新しい。 そして、問題が発覚するたびに、テレビでは謝罪会見の模様が放送されているのも日常茶飯事だ。   外国人はテレビで謝らない 芸能人に限ったことではない。今年は企業の不祥事も相次いでいる。事件や事故を引き起こした企業のトップが謝罪会見を行う光景は、珍しいものではなくなった。このところやたらと、日本を「スゴ~イデスネ!」と褒めちぎる番組が放送されている一方で、これだけ芸能人や企業が謝罪しまくっている光景を見せられると、本当にニッポンはすごいのか? と疑問を抱いてしまうほどだ。 さて、毎日のようにテレビで放送される謝罪会見だが、実は日本独特の文化であることをご存知だろうか。『世界でも珍しい『謝罪会見』という光景』(マッド・アマノ・著/アドレナライズ・刊)には、著者とデーブ・スペクター氏の対談が掲載されている。対談によると、外国の企業のトップは「まず謝罪ありき」という手法に対して、かなり抵抗があるのだという。 土下座を受け入れる文化 デーブ氏は、アメリカでも企業が不祥事を起こした場合、もちろん遺族や被害者に対して哀悼の意を伝えるが、テレビを通じて公的に謝罪会見を行う文化はないと解説している。プライベートで手紙を出したりして謝罪するのが一般的なのだそうだ。そして、国民も、企業は法的に制裁を受ければいいというスタンスでいるのだという。 そのため、外国企業の不祥事に日本人が巻き込まれた場合、謝罪の有無で軋轢が生まれることがあるそうだ。 なぜ日本人は謝罪会見をするのだろう。本著では、日本人の土下座を受け入れる文化も、一つの原因ではないかと解説している。誠心誠意謝れば許してもらえるのだ。ただし、逆にそうしなければ相応の社会的制裁を受けなければならない、という風潮があるようだ。 謝罪会見の失敗で企業が潰れる 昨今、twitterなどのSNSの発達によって、一般の人も企業の問題を告発できるようになった。ネットのちょっとした一言がきっかけになり、企業のトップが謝罪に追い込まれた例もある。 今までは泣き寝入りしていた人の声がトップにも届くようになったという点では、歓迎すべき点かもしれないが、一方で、筆者はこのように指摘している。 何かあれば謝罪しないことには収まらないという社会的風潮が強まっている。不祥事を起こしたことを隠蔽したり、対応を誤れば企業の命取りになりかねない。それだけに企業は謝罪に神経質になっている。 昭和30年代に某乳業メーカーが多数の死者を出す不祥事を起こしたことがあるが、それでも会社は潰れなかった。しかし、今は不祥事で会社が潰れることも珍しくなくなっていると、筆者は解説する。それこそ、謝罪会見の印象の悪さが、企業に止めを刺す例も少なくないのだ。 謝罪会見はどこへ行くのか 謝罪会見はしょっちゅう行われているし、今や形式的なものになりつつある。そのためだろうか。謝罪会見後にネットを見ると、企業や芸能人の謝罪が本音なのかどうか、かまびすしく論争が交わされることが多い。 企業の不祥事によって死者が出た、という例なら謝罪会見が行われても当然かもしれない。しかし、芸能人がちょっとした失言をしたときに、「謝罪しろ!」と袋叩きにするのはどうなのだろうか。病的な印象を受けてしまう。謝罪するほどでもないことでも、謝罪していることが多いと本著は指摘する。この風潮が行き過ぎてしまうと、めちゃくちゃ生きづらい世の中になってしまう気がするのは、私だけだろうか。

京都ぎらいが暴露。観光客に知られたくない古都のウラ事情

「ハゲ」は差別用語だ。同様に「埼玉県」の住民や出身者を称して「ださいたま」と小馬鹿にすることも、差別であり人権侵害だ。自覚のない人が多すぎる。反省したほうがいい。 差別はどこにでもある。日本有数の観光都市も例外ではない。話題の新書『京都ぎらい』(井上章一・著/朝日新聞出版・刊)は、京都で生まれそだち、何十年も暮らしてきた著者が、いまでも古都にはびこっていると噂される差別感情や選民意識を告発したものだ。くわしく紹介しよう。 京都市民は「洛中」の選民意識に迷惑している!? 『京都ぎらい』の著者いわく、都の中心地(洛中)で生まれそだった市民、すなわち「洛中人士(らくちゅうじんし)」は、都の周辺地(洛外)生まれの市民たちを「京都人」であると認識していない。しかも、洛外出身者を目の前にして、平気な顔で「あんたは京都と無関係」みたいな意味のことを口に出すという。 洛中で生まれ育ったがゆえに備わってしまう無自覚な選民意識は、ほとんど批判の対象にならず、市民のあいだでは「公然の秘密」だった。洛中人士による「奇妙な優越感」は、いままで地元マスコミもあえて活字にすることがなかった。 だが、タブーはいつか打破されるべきものだ。王様の耳はロバの耳。21世紀を迎えたある日、ついに京都の大手マスコミ紙上において「洛中人士の選民意識」に言及する者が現れた。 京都生まれなのに京都人と名乗れない!? それはKBSホール(京都市上京区)でおこなわれた「全日本プロレス」興行における一幕だった。リング上では武藤敬司が奮闘していた。しかし『京都ぎらい』の著者である井上さんの目を引いたのは、悪役レスラーである「ブラザーヤッシー」のマイクパフォーマンスにまつわる一悶着だった。 当日、リングへ上がったヤッシーは、試合の前にマイクで場内に語りかけた。京都出身の自分が、京都へかえってきたというアピールを、こころみている。 ちょうど、その時であった。客席からブーイングと同時に、痛烈な野次があびせられたのである。 「お前なんか京都とちゃうやろ、宇治やないか」「宇治のくせに、京都と言うな」 似たような罵声が、ほかにも二、三あったろうか。とにかく、宇治を故郷とするレスラーが京都出身を僭称するだけで、客席はいらだった。 (『京都ぎらい』から引用) この出来事に、観戦席にいた『京都ぎらい』の著者である井上さんはひどく心を痛めたという。なぜなら、当時の井上さんは宇治に住んでいたからだ。これぞまさしく「洛外生まれや洛外住まいの者が存在を全否定される」という、京都ならではの光景だった。 タブー解禁。京都新聞の英断 たしかに宇治は、京都御所が建っている京都市上京区から20キロメートルほど離れており、地図の右下に位置する。しかしながら、宇治といえば宇治茶だ。ほかにも宇治金時など、日本全国の人々が京都を連想して余りあるほどのキラーコンテンツではないか。そんな知名度バツグンの宇治ですら、洛中人士たちは「京都」であること認めようとしない。 先に紹介した「京都以外ではありえない風景」をとりあげたプロレス観戦記は、2010年3月14日付けの京都新聞に掲載された。一部読者からは「京都に喧嘩を売っとるんちゃうか」「京都をあれこれ言う文章はぎょうさんあるけど、あんなん初めてや」など、怒りを隠しきれない意見が寄せられた。 してやったり。まさに洛外人士イノウエによる面目躍如と言ったところだろうか。 KBSホールにおける「宇治のくせに、京都と言うな」呼ばわりは、井上さんが今まで受けてきた数ある屈辱のうちの一つにすぎない。 つぎに紹介するのは、井上さんが「洛中人士の親玉」ともいえる人物と接したときの古い記憶だ。けっして忘れることができない「洛外者の烙印」を身に刻んだ日であり、屈辱の原体験と言えるのかもしれない。 名家当主から受けた屈辱の烙印 「君、どこの子や」 たずねられた私は、こたえている。 「嵯峨からきました。釈迦堂と二尊院の、ちょうどあいだあたりです」 この応答に、杉本氏はなつかしいと言う。嵯峨のどこが、どう想い出深いのか。杉本氏は、こう私につげた。 「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」 (『京都ぎらい』から引用) 引用部分における「私」というのは、若き日の井上さんだ。京都大学建築学科のゼミに所属していたので、調査のために「杉本家住宅」を訪れたのだった。1977年の出来事だ。 所有者である杉本秀太郎氏(故人)は、京都市下京区で300年以上もつづく名家の九代目当主だ。 杉本氏が何気なく発した「肥(こえ)」とは人間の糞尿のことであり、すなわち、このとき初対面にもかかわらず、井上さんは「肥えくみの子孫」「かつて糞尿を運ぶ者たちが盛んに行き来していた地域からやってきた非京都人」呼ばわりをされたのだ。当時の井上さんは「いけずを言われた」と感じてしまったという。 故・杉本秀太郎氏はフランス文学者であり、読書人の評判が高い随筆集『洛中生息』(みすず書房・刊/のち、ちくま文庫)を著している。これぞ、井上さんが言うところの「洛中人士」の由来だ。 洛外人士イノウエ~逆襲のサガ~ 『洛中生息』という書物はすでに絶版(品切れ重版未定)だが、このたび入手した。ひもといてみれば、なんと一行目から洛中人士そのものであったから、わたしは驚いた。 かつては、京の町のどまんなかにある私の家からも、東山、北山が二階の窓ごしによく見えた。 (『洛中生息』から引用) 京のどまんなか! このあと全編にわたって「京都の町なか」「京都の町のまん中」「京都人」「都会のさなかで」「京都の町なかで生まれ、いまも同じ場所に」「京都の町なかに住む私が」と、春夏秋冬にわたって変わらぬ洛中人士っぷりを書きつづっている。 『京都ぎらい』の著者・井上章一さんは、「洛中的な価値観」を告発することによって雪辱を果たすことができた。さぞやスッキリしたであろうと思ったら、そうではないらしい。 京都人(洛中人士)たちに何度もおとしめられるうちに、井上さんは、生まれた嵯峨(さが)よりもさらに洛中から遠い「亀岡」や「城陽」を見くだすようになってしまった。洛中人士たちが、井上さんに不要な差別意識を植えつけてしまったのだ。京都ぎらいになるのも無理はない。

あなたも「プチ男尊女卑」かも!? 無意識の非モテ言動にご注意を

アラサー独身女性である筆者が仕事に疲れて、「もう一生寝て暮らしたい」と飲みの席などでつい愚痴ると、決まってその場にいる男性から返ってくる言葉が、「結婚すればいいじゃん」だ。 結婚したら余計寝ていられないと思うのだが、彼らの頭の中には「働かない女性=主婦」という図式が無意識のうちに染み付いているようである。そして、それが男尊女卑的な発想だということに気づいていない。 男尊女卑は「高プライド男」によく見られる そんな男尊女卑的な発言は、「高プライド男」によく見られると指摘するのが、女性エッセイストの犬山紙子氏。「負け美女」(美人なのになぜかモテない女性)や「痛男(イタメン)」(モテたい下心を本人は隠していても周囲にバレバレな男性)といったワードを生み出した彼女が、痛男たちの中でも特に「高学歴男性」にフィーチャーして著した『高学歴男はなぜモテないのか』(扶桑社・刊)の中には、現代女性をとりまくさまざまな「新3高男」たちの痛々しいエピソードが紹介されている。 本著で言う「新3高」とは、バブル期などにもてはやされた「高収入」「高学歴」「高身長」の3高とは少し違い、最後の「高身長」が「高プライド」になったものだ。 そして、特にこの「高プライド」こそが、過剰な自己防衛や自己顕示欲を招き、男社会の競争で劣等感を味わった時、自分より低い(と思いたい)女性に鬱屈した怒りや憎悪を無意識にぶつけてしまうのだという。 あなたも「プチ男尊女卑」? そんな無意識のうちに男性が女性を下に見てしまうことを、犬山氏は「プチ男尊女卑」と命名し、下記のチェックリストを設けている。 母親の扱いがぞんざい 女芸人で笑いたくない 韓流好きの女性は「マスゴミに踊らされている」<以下略> 上記は全9項目あるのだが、3つ以上あてはまると「確実にモテない」、7つ以上あてはまると「女にトラウマでもあるの?」という域に達するそう。すでに3つあてはまっているという方、危険ですよ〜。 男に対してもマウンティング さて、そうやってヒエラルキーの上に立ちたがる男性は、格下だと思っている男性に対しても必死にマウンティングする傾向にあると犬山氏は言う。その例として、「なあ、聞いてくれよ! こいつまだ童貞なんだぜ」「ねえ、●●ちゃん、こいつの童貞もらってあげてよ」といった会話を挙げているのだが、筆者もこのやりとりは何度も聞かされたことがある(うんざりだ)。 ただ、こういった男性は、同じく「格下をバカにするタイプの女性」のいいカモになるそう(いい気味だ)。 女性のマウンティングは男性とは違い、自分より明らかに「顔面偏差値」が劣る女性に「えー、●●ちゃんの方がぜんぜんかわいいよお〜」と言い放ったり、そのコを合コンでの汚れ役にしたりするそうだが、そんなずる賢い女性だからこそ、高プライド男の虚栄心をくすぐる「すごーい!」といった言葉を操って、いいように利用するとのこと。こわーい。 プライドを捨て、マヌケを磨け! そんな高プライドをこじらせてしまった男性は痛男になりやすく、高収入・高学歴であってもモテないという。だが、そんな痛男でも、今からでも女性にモテるようになる方法がある。 それは、痛さの中にも「かわいげ」を作ること。犬山氏が周りの女性に「男性に萌える意外なポイント」について聞いたところ、「寂しい猫背」「寝癖だらけの頭」「動物に見下されている」といった、どこか母性本能をくすぐるマヌケな特徴ばかりが挙げられたそう。 ここで大事なのは、それがあくまで計算されていない、自然なマヌケさであること。「マヌケでかわいい俺」に酔わないことが大切だという。また、当然だが、終始マヌケでもダメで、キリッと仕事をしている時とのギャップが重要らしい。 本著には他にも、「深みのある自分」を演出するためにアウトローの友人を持ちたがる、クソバイス(上から目線のアドバイス)をしたがる、などなど、現代版3高男に関する犬山氏独特の的確かつユーモラスな分析が満載なので、自分にその気を感じた人は処方箋代わりに手にとってみては。

評価が上がる!飛躍できる!恥をかく前に知っておきたい社会人ルール8

私が某企業に入社したとき、最初の新人研修に「マナー研修」の時間が設けられていた。初めて社会に出た右も左も分からない若造に、社会人としてのいろはを教えてくれた、ありがたい時間だった。 その後、営業職に配属された私は、マナー研修で学んだ「上座・下座」の配置や挨拶の仕方、敬語の基礎が実際に役立ち、何度も感謝した記憶がある。 しかしながら、それだけでは足りないということも、社会人生活の中で身を持って経験した。そんな私の体験上、これは知っておくべき!という社会人ルールをいくつかご紹介したい。知ってるものばかりだよ!という方も、ぜひおさらいとしてお付き合いいただければ幸いだ。 電話の取次 新人が最初にやる仕事といえば、電話の取次ではないだろうか。ここがスムーズにできると、一気に社会人としての評価はupする。 ・社内の人間は呼び捨てにする言うまでもなく大前提のルールであるが、うっかり「~さん」と言ってしまう人は意外に多い。電話口で「◯◯さんは、ただいま席を外しております」などと言われたら、ああ、新人さんなんだなと微笑ましくも思えるものだが、やはりここは抑えておきたい。「◯◯課長は…」と役職をつけて社外の人に紹介するのもNG。「課長の◯◯は」が正しい。 ・名指し人の状況によって対応を考える名指し人が席を外しているときや電話に出られない場合は、こちらから折り返すのが基本。会社でいいのか携帯にかけるべきか、場合によっては電話番号を確認しておく。名指し人が会議中の場合も取り次がず、折り返し連絡する旨を伝えるのが基本だが、相手が急いでいる場合は内線にかける、本人に伝えに行って対応を確認するなど、臨機応変に。朝一番の電話で、本人が遅刻していて不在の場合は、「本日は立ち寄りで、◯時頃に出社する予定です」と対応を。くれぐれも「まだ出社しておりません」などと正直に伝えないこと!最近は、会社で携帯を持たせているケースも多いが、私用の携帯電話を使っている場合は、本人の許可無く相手先に携帯番号を教えるのはNG。必ずこちらから連絡させると約束して、対応すべき。 冠婚葬祭<葬> 取引先の急なご不幸などの際、通夜や告別式に参列する機会も多いもの。急な事態でも慌てぬよう、基本ルールは覚えておきたい。 ・香典に新札は使わない最近、「喪服を着てコンビニに行き、『お釣りを5千円札でお願いします』と言ったところ、レジにある5千円札をすべて出して、『これが一番使用感あります』と対応した若い店員さんに感動した!」という神対応話がSNSで話題だった。「あらかじめ用意していたと思われないよう」新札を包むのは避けるべし。 ・不祝儀袋の表書きは「薄墨」でこれはまさに、私が若い頃に犯した失敗だ。不祝儀袋の表書きを頼まれた私は、書道が得意だったこともあり、筆ペンで綺麗に社名を書いた。当然誉められるとばかり思っていたら、それを見た上司は「おいおいおいー!」と苦笑い。「涙で薄れる」という意味から、不祝儀袋は薄墨で書くということを知らなかったのである。今となっては笑い話だが、かなり恥ずかしい思いをした。 ・毛皮や革のコートは避ける「殺生」をイメージするという意味合いから、お通夜や告別式などに毛皮や革のコートは避けた方がいいと言われている。お通夜は本来「まず駆けつける」ものなので、そこまで厳密ではないかもしれないが、できれば避けた方がいいだろう。以前、お気に入りのファーのバッグを会社に持っていっており、仕方なくそのバッグで通夜に参列したことがあるのだが、どうにも人目が気になってしまった経験がある。会社のロッカーに黒のバッグをひとつ置いておくと安心。  その他<書類のとじ方、手紙のマナーなど>  ・縦書きの書類は右とじ、横書きの書類は左とじが一般的秘書検定の勉強をしていて覚えたルール。書類が読みやすいか、用紙をめくりやすいかという点から、縦書きは右、横書きは左を綴るのが基本だそうだ。昔、横書きの書類をいつも右側で綴る上司がいて、取引先に渡す企画書もその綴じ方だったので、渡す前にこっそり左綴じに直していたことを思い出す。 ・夫の手紙を代筆する際の署名は「内」これはビジネスとは直接関係がないが、豆知識として。 かつて、夫の上司の家から手紙が届いた際、上司の名前の横に「内」と書かれており、「内さん? 誰?」などと疑問に思ったら、夫の手紙を妻が代筆したときに書く署名法だと知った。確かに、頂き物の御礼などを夫のかわりに妻が書いて送る機会は少なくない。妻のフルネーム書くのは、面識がない相手や目上の人に送る場合は好ましくないものだ。夫のフルネームの横に「内」と少し小さめに書くのが◎。 ・コピー機を使い終わったら、リセットボタンを押しておく社会人のルールとまではいかないかもしれないが、個人的にぜひ実践してほしいのがコレ。会社でコピー機を使ったら、次の人のために、必ずリセットボタンを押して終了する。よく、前の人の設定のままコピーしてしまい、サイズ違いや枚数間違いが起こるもの。それを避けるために、ほんの一手間だが、習慣にしておくといいと思う。 このほかにも、いわゆる「常識」として知っておきたいこと、社会人として身に付けておきたいルールは数多くある。少しでも自信がないことがあれば、『スキルとマナーが身に付く 社会人のルール』(NPO法人 日本サービスマナー協会・監/学研プラス・刊)などのマナー本を一冊手元に置いておくと安心だ。知らなくても生きてはいけるが、知っていると、あなたの評価はぐんと上がり、社会人として飛躍できること間違いなし。ぜひ、今一度「社会人ルール」を見直してみてはいかがだろうか。