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SMAPも少年遣欧使節も、信義を通したのだと信じたい

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お盆休みを過ごすため、夫の実家に帰省した。
いつものように飛行機の切符を取り、いつものように、帰る直前まで掃除に邁進した。
いいかげんにしていくと、帰宅したとき、ゴキブリに迎えられることになる。
暑いさなかに家を空けるのは緊張する。
ようやくすべてを終えて、神戸の自宅から東京の実家に着いた私を驚愕させたのは、SMAP解散のニュースだった。

SMAPと少年遣欧使節

なぜ、今、このタイミングで発表するのよ?
よりによって、リオ・オリンピック開催中の14日未明にしなくちゃいけないの?
私は私に尋ねたが、もちろん答えはわからない。
きっと複雑な「オトナの事情」があるのだろう。
国民的アイドルというものは、所属事務所やテレビ関係者、CMのスポンサーやら、CD制作会社など、おそろしく複雑な事柄を抱えて、生きていなくてはならない。

いきなり話がぶっとんで申し訳ないが、SMAPのニュースを聞いたとき、真っ先に思い出した顔がある。
ローマへいった少年使節』(谷真介・著/女子パウロ会・刊)にその人生が詳しく描かれているが、 今から400年以上前、遣欧使節としてはるばるヨーロッパまで出かけた少年たちがいたのだ。
彼らがヨーロッパまで出向いたのは、信仰に支えられてのことだったろう。
しかし、その後、彼らを待っていたのは、残酷な仕打ちであった。
政府が方針を変更したため、予定通りにことが運ばなくなったのだ。彼らは翻弄され、めちゃくちゃになった。

4人の少年たち

キリシタン大名の名代として選ばれた少年は4人。
当時、九州は島原半島に設けられていたキリスト教の学校に通う生徒たちだ。
彼らは、いわば特待生のようなもので、国の威信を背負っての留学である。
4人の少年の名前は以下のとおり。 伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノである。
この名を聞いて、違和感を覚える人も多いだろう。 名字のあと、クリスチャンネームが続くなんて、なんだか不思議だ。
私自身もカトリックの家庭に生まれ、洗礼を受けて、クリスチャンネームも持っている。 普段は、三浦暁子と名乗っているが、墓碑には「三浦・小さき花のテレジア・暁子」と刻まれるだろう。
その話を仏教徒の友達にしたとき、彼女は「いいじゃない? なんだかキッチュで素敵だよ」と、褒めてくれた。

船旅の行く末は?

キッチュが褒め言葉かどうかはわからないが、4人の少年使節は優等生として褒められる仕事を成し遂げた。
日本でのキリスト教の布教が着々と進んでいることをヨーロッパ社会に示したからだ。
それもまだほんの子供と呼ぶべき年齢なのに、ヨーロッパ風の洋服をまとい、ヨーロッパ世界の王族に堂々と対峙した。
ローマまでの道のりは3年1ヶ月。往復では8年半かかったというのだから、使命を意識していなければ、耐えられない壮大な旅だった。

関白秀吉に会う

帰国した彼らを待っていたのは、あまりにもつらい現実だった。
出国するときは、大名の名代としての誇りを持っていた。不安もあったろうが、誇らしい旅立ちであったはずだ。 ヨーロッパ各地でも大歓迎を受けた。
しかし、彼らは本来の目的を見失うことなく、ヨーロッパから帰国している。1590年には時の関白秀吉に謁見しており、まさに凱旋といい扱いだったはずだ。 迎える関白秀吉も少年たちを歓迎し、細やかな対処を命じている。

「一行に泥水がかからぬよう、道にたくさん砂をまくようにせよ」といった心づかいをみせ、当日は馬までさしむけてくれました。

(『ローマへいった少年使節』より引用)

4人の少年

すでにバテレン追放令が出ており、不穏な空気はあったものの、彼らは有名になった。
ヨーロッパをその目で見た特別な人たちであったからだ。
しかし、華やかなのはここまでであった。
時代が進むにつれ、キリシタンへの迫害がひどくなったからだ。
伊東マンショは、修道会へ入会したものの、43歳で病死している。 日本でキリスト教を広めたいという夢も果たせず、逝ったのだ。
原マルチノは、日本を追放され、マカオに逃れ、そのままマカオでなくなった。
中浦ジュリアンは日本にとどまり、信者の世話を続けていたが、最後は死ぬよりつらいとされる逆さづりの刑にあって、殺された。
千々石ミゲルは棄教した。そして、その後の人生をキリスト教徒たちを迫害する仕事をするすようになった。

お盆休みの終わり

誰が幸福で、誰が、みじめで不幸だったのか。 簡単には決められない。
しかし、4人が、時の流れと、為政者の方針転換に翻弄されたのは確かである。
キリスト教が弾圧される前、華々しくヨーロッパに向かった彼らだったのに、帰国すると、信じてはならない邪教の信奉者として扱われた。
ここでもまた「オトナの事情」「オカミの決断」が優先されたということだろう。
SMAP解散のニュースでがっくり疲れたまま、私は神戸の家に帰宅した。
暑い中、ふらふらになって到着し、ドアを開けると、猛烈な熱気に包まれた。
ゴキブリはいなかった。
代わりに小さなヤモリが、なぜか居間の真ん中にいて、私を出迎えてくれた。
まるで「家を守っていたんだよ」と、言わんばかりに。 その姿は、いろいろあっても、なるようになるという、希望となって、今も私のなかにある。
お盆休みは終わったのだ。

(文:三浦暁子)

ローマへいった少年使節

著者:谷真介
出版社:女子パウロ会
鎖国時代が終わり、日本が近代国家として歩みはじめた明治4年(1871年)、アメリカ、ヨーロッパの諸国をめぐり各国の元首たちをたずねる岩倉具視ら50人の使節団が、長い旅の後イタリアのベネチアを訪問した。そこで訪れた古文書館の係員から、280年前に日本から来た使節たちの手紙7通を見せられた。天正少年使節と、支倉常長の使節の手紙だった。関ヶ原の戦いよりも前に、使節団が派遣されていたことを岩倉は知らなかった。禁教令の中、キリシタンたちの歴史は抹殺されていたからだ。キリシタン大名たちから派遣された4人はどのような少年たちで、どのような使命を託されて、数年に渡る命がけの旅に出、どのような運命をたどったのだろうか 。

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