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豊臣が二代で滅び、徳川が十五代つづいた理由

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捨(すて)こと「鶴松」は、わずか3才で亡くなってしまう。秀吉と茶々(淀殿)のあいだに産まれた1人目の子だ。

当時、秀吉は56歳。鶴松の没後、もはや第二子を望めないとあきらめた秀吉は、甥(おい)の秀次に関白職をゆずる。

ところが、思いがけないことが起きる。茶々がふたたび男子をさずかったのだ。子どもは拾(ひろい)と名付けられる、のちの豊臣秀頼だ。一転して秀次は立場を失ってしまう。秀吉の身になってみれば、我が子に跡を継がせたいのが親心というものだ。

このあと史実では、関白秀次は自害する。一説によれば、秀吉が切腹を命じたとも言われる。謀反の疑いがあったとされて秀次の一族や従者も処刑された。以上が「秀次事件」と呼ばれている御家騒動だ。

じつは、秀次事件こそが豊臣家滅亡の原因になったという研究がある。秀次失脚は、関ヶ原の戦いに重大な影響をおよぼしたというのだ。もしも秀吉が甥っ子のことを邪魔者扱いしなければ、徳川家康は天下を逃していたかもしれないのだ。

もしも関白秀次を生かしていたら

大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』(山本博文・著/朝日新聞出版・刊)によれば、関白秀次が生前に治めていた領地こそが関ヶ原の勝敗を左右したのだという。

汁かけ飯でおなじみの北条氏政が滅んだあと、徳川家康が江戸に「左遷」されるのはご存じのとおりだ。当時の江戸は、京から遠く離れた田舎にすぎなかった。本拠地から転封することによって家康の勢力を削ぐねらいがあった。

一方、秀吉の信任が厚かった甥っ子の秀次は、かわりに尾張・美濃・駿河・遠江・三河の統治を命じられている。これらは旧織田領と旧徳川領であり最大の要所だった。つまり秀次は、家康に対する「防波堤」の役割を果たしていた。

関白秀次が自害したあと、代わりに尾張領を治めたのは福島正則だ。秀吉の血縁者であり、かつて「賤ヶ岳の七本槍」にも数えられた秀吉の忠臣だったが、関ヶ原の戦いでは東軍(家康)に味方する。亡き秀次の宿老だった山内一豊たちも寝返った。そのおかげで家康は城攻めの苦労をすることなく東海地方を通りぬけて関ヶ原まで軍を進めることができたというわけだ。

江戸時代の養子相続にはペナルティがあった

大坂夏の陣(豊臣家滅亡)が1615年。家康が没したのは1616年。まさに寿命との戦いだった。もしも関白秀次が自害していなければ、天下取りなど望むべくもなく、家康は豊臣家の重鎮として生涯を終えていただろう。

江戸時代にも跡継ぎにまつわる御家騒動があとを絶たなかった。きびしい戦国の世を生き抜いてきた初代藩主にくらべて子孫にバカ殿様が多かったせいもあるが、大名たちを悩ませたのは「末期養子の禁止」という制度だった。

幕府の規定では、当主が五十歳以上、あるいは十七歳未満の場合は養子を迎えることができず、相続が認められなかったのです。

(『大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』から引用)

当主が急死した場合は例外として「急養子」が認められたが、ペナルティとして領地を半分没収されたという。

大名家の婚姻や相続は、すべて幕府の許可を必要としました。正確に言えば、将軍の承認です。大名は将軍と主従関係を結んでいるという建前ですので、どちらかが没すれば、あらためて主従関係を結び直さなければならなかったのです。

(『大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』から引用)

「末期養子の禁止」のせいで、たとえば米沢藩(上杉家)は三十万石の領地が半減したことがある。当主が急死してしまい「急養子」によって断絶をまぬがれたからだ。このとき2歳で当主に仕立てあげられたのが上杉綱憲だ。忠臣蔵でおなじみ吉良上野介の実子にあたる。

250年以上続いた徳川家の血統マネジメント

「末期養子の禁止」という制度によって大名たちの勢力を削いでいた徳川将軍家も、後継者問題ではさんざん苦労している。

二代秀忠・三代家光・四代家綱は、それぞれ前将軍の実子だ。しかし、家綱には子がいなかったので、弟である綱吉を五代将軍にするしかなかった。名前に「家」の字がないのはそのせいだ。六代将軍家宣は、綱吉の甥っ子だ。七代将軍家継は実子だが8歳で病死した。ここで徳川宗家(二代秀忠の直系)の血統が途絶えてしまう。

このあと、いかに家康の血を途絶えさせないかが最重要ミッションになる。八代将軍は御三家から迎えられた。

御三家とは、家康の九男(尾張藩)十男(紀州藩)十一男(水戸藩)を祖とする家系だ。暴れん坊将軍こと徳川吉宗は紀州系であり、このあと九代家重・十代家治までは実子相続がおこなわれた。しかし家治の実子が亡くなったので、吉宗の実子たちによる分家「御三卿」から十一代家斉(一橋豊千代)が迎えられた。

ちなみに、最後の将軍である十五代慶喜は御三卿「一橋家」出身だが、そもそも慶喜は御三家である水戸斉昭の実子だ。徳川将軍家における最大の御家騒動は、実子をもうけなかった十三代家定のあとを家茂(南紀派)にするか慶喜(一橋派)にするかで大奥も巻き込んで争ったものだ。特に「将軍継嗣問題」と称される本件は、NHK大河ドラマ『篤姫』にてドラマチックに描かれていた。

つまり、二代秀忠の直系でなくなった八代吉宗以降は、御三家と御三卿が徳川将軍家を下支えすることによって家康のDNAを保ちつづけた。江戸幕府樹立から無血開城まで250年以上も御家がつづいたのは大したものだ。

(文:忌川タツヤ)

大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか

著者:山本博文
出版社:朝日新聞出版
子どもが生まれない、父親が家督を譲らない、正室vs.側室のバトル。とかく「家」を守り続けることは難しい。徳川治世260年、将軍家や大名家は、「御家断絶」の危機をいかに乗り越えたか? 現代人にも身につまされるエピソード満載!

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