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ムヒカ前大統領のスピーチを喜んだのはだれか?

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この4月、「世界一貧しい大統領」として知られるホセ・ムヒカ前ウルグアイ大統領が来日した。国家の最高権力者である大統領という地位にのぼりつめても、一貫して、質素で、つつましやかな暮らしをつづけ、収入の9割を寄付にまわしていたという方で、そのスピーチが動画サイトで評判になり日本でも一躍有名になった。


スピーチの動画を見たことがあるが、親しみやすい人柄とわかりやすい語り口はたしかに魅力的だ。話の内容はというと、既存の大量消費社会モデルを批判し、真の幸福とはなにかを説くものだ。それはもっともなのだけれど、これを一国の大統領ではなく、無名の一般人が語ったとしたら、どうだろう。おそらく、ほとんど評判にはならなかったのではないか。

「名言」化が隠蔽するもの

「自分が幸福でないのを他人や環境のせいにするな」とか「物はあなたを幸せにしない」とか「本当に貧しい人とは、どんなに物を手に入れても満足しない人のことだ」といったムヒカ氏の言葉は、ツイッター上に流れては去っていくありふれた無数の「名言」と変わらない凡庸な教訓にも聞こえる。もちろん、それに説得力を持たせているのはムヒカ氏自身のリアルな人生経験なのだが、一般化・大衆化することによってその経験の文脈が薄まっていくのは避けようがない。

気になったのは、このスピーチを聞いて、反応するのはだれかということだ。「お金持ちで幸福な人」は「自分が幸福でないのを他人や環境のせいにするな」といわれても、すでに幸福だから気にしないだろうし、わざわざ貧しくなろうとも思わないだろう。

貧しさは自己責任か?

だが、「貧しくて」「不幸」な人たち(より正確には、貧しくて不幸と「感じている」人たち)はどうか。むしろ、反応するのは彼らのほうではないか。「あなたがいま貧しいと感じているのは、あなたが物を欲しがっているからだ。幸福でないのは、他人や環境のせいではなくて、足ることを知らないあなたのせいなのだ」といわれた気にならないだろうか。それを批判ととるか、励ましととるかは人によるだろうが、好意的な反応が多いということは、そこにポジティブなものを感じるからだろう。

しかし、世界には「質素」や「倹約」という言葉に翻訳できない深刻な貧しさや不幸も存在する。たとえムヒカ氏の真の意図ではないにしても、「貧しさ」も「不幸」も自己責任だというメッセージは、そうした人びとの置かれている深刻な状況から目をそらすことにもなる。

しかも、皮肉なことに、それはムヒカ氏がスピーチの中で批判しているはずの富裕な支配層にとっては、かえって好都合だ。「貧しさ」や「不幸」は、富の不平等な分配の仕組みをつくってきた支配層のせいではなく、「貧しくて不幸な」人たち自身のせいだといえるからだ。

「心理学化」というすり替え

くりかえすが、それはもちろんムヒカ氏の真意ではないだろう。ムヒカ氏はそういう不平等な仕組みそのものを批判している。しかし、彼の言葉が歓迎される背景には、社会や制度の面から取り組まなくてはならないことを個人の内面の問題としてとらえようとする傾向が日本の社会にあることとも関わっているのではないか。「自分が幸福でないのを他人や環境のせいにするな」と考えたほうがしっくりくるし、敵を作らずにすむし、面倒なことも見ないですむ。

このような傾向を精神科医の斎藤環さんは「心理学化」と呼び、その著書『心理学化する社会』(斎藤環・著/河出書房新社)でくわしく分析している。『心理学化する社会』は2003年に出た本であり、当時ぼくも読んだ。1990年代後半のサブカルチャーに見られる「トラウマ語り」や「アダルト・チルドレン」「じぶん探し」といった概念の流行の背景、さらに社会現象全般を個人の心のあり方によって説明しようとする傾向を批判的に分析した好著だ。

それから10年以上たって、こうした社会の「心理学化」はどうなったのか。トラウマ語りやアダルト・チルドレンといったブームは退潮したが、ニートやフリーターになるのは本人の努力不足だ、少子化は女性が自分のこと優先で子どもをだいじにする気持ちに欠けるからだといった物言いはあいかわらず目にする。

「じぶん探し」に「じぶん」はいらない

経済政策や不況対策の無策を個人の自己責任に転嫁することで、問題の本質を隠蔽するという手口は以前よりむしろ巧妙化している。それは膨大な数の自己啓発本や啓発ビジネスの氾濫からも明らかだ。それとは逆に、個人の内面的な問題として対処できることを、社会問題に転化して見ようとする、いわば「社会学化」とでもいうべき傾向も見られる。

いずれにしても、現実の社会はいろんな要素が複雑に絡まり合いすぎて、なにが要因かは、そうかんたんにはわからない。だから、ひとは本当の要因に切り込むよりも、納得しやすい物語を見つけようとする。それが「心理学化」や「社会学化」になる。

話はとぶが、ナスレッディン・ホジャという頓智おじさんが活躍する一連のトルコの民話がある。その中にこんな話があるーー。

ナスレッディンが街灯の下で、なくした鍵を探している。近所の人も気の毒がっていっしょに探すが見つからない。「本当にここでなくしたのですか?」と聞かれたナスレッディンは、「いや、なくしたのは家の中です」と答える。「じゃあ、なんでここで探しているのですか?」ご近所さんがあきれていうと、ナスレッディンはこう答える。「だって、ここのほうが明るいから」

肝心なことは、ナスレッディン本人は、鍵をどこでなくしたか知っているということだ。でも、そこは暗いから街灯の下で探している。ナスレッディンにとって、いまだいじなことは暗いところで苦労して鍵を見つけることよりも、明るいところでラクに探すふりをすることなのだ。そこに鍵がないことはじつはわかっている。でも、探しているうちに気持ちよくなってきて本当に見つかる気がしてきてしまう。「心理学化」とはそういうことかもしれないし、「じぶん探し」というのも、きっとそういうことなのだと思う。

(文・田中真知)

心理学化する社会

著者:斎藤環
出版社:河出書房新社
あらゆる社会現象が心理学・精神医学の言葉で説明される「社会の心理学化」。精神科臨床のみならず、大衆文化から事件報道に至るまで、同時多発的に生じたこの潮流の深層に潜む時代精神を鮮やかに分析。

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