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太宰治のパクリ疑惑。『女生徒』と『俗天使』を検証する

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芥川龍之介賞(通称・芥川賞)は、ときどき世間を騒がせる。発行部数200万部以上のベストセラーである『火花』(又吉直樹・著)は第153回の受賞作だ。

記念すべき第1回の受賞作は『蒼氓』(石川達三・著)だ。いまから80年前の1935年(昭和10年)のこと。そのとき惜しくも受賞を逃したのが、太宰治(だざいおさむ)だった。

太宰は賞金が欲しかったようで、選考委員の佐藤春夫にあてて、事前に「芥川賞受賞を懇願する手紙」を送り届けていたのは有名なエピソードだ。しかし、選考委員のひとりである川端康成が否定的な評価を与えたので、太宰治は第1回芥川賞に落選してしまった。

このときから太宰は、川端康成をはげしく憎みはじめる。復讐の機会をうかがっていた。

太宰治は「川端康成を刺す」と書いた

私はあなたの文章を本屋の店頭で読み、たいへん不愉快であった。これでみると、まるであなたひとりで芥川賞をきめたように思われます。
(中略)
事実、私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。
(中略)
刺す。そうも思った。大悪党だと思った。

(『川端康成へ』(太宰治・著)から引用)

太宰が読んで不愉快になったのは「文藝春秋 1935年9月号」だ。誌面に第1回芥川賞の選評が発表されていた。

太宰治と川端康成のあいだの遺恨については、『文豪失格』(千船翔子・著/実業之日本社・刊)というマンガにも紹介されているほど有名なものだ。明治・大正・昭和期に活躍した有名な小説家や詩人たちが、天国で楽しく暮らしている様子を史実をふまえてコミカライズしている。

芥川賞騒動の4年後に、太宰治は『女生徒』という小説を発表する。いまでも読み継がれている名作であり、当時の出版界においても好評だった。なかでも川端康成は、文芸時評の連載上で『女生徒』を激賞した。

しかし、それは太宰治が仕掛けた「釣り針」あるいは「罠(わな)」だった。じつは『女生徒』の文章は、実在する日記の記述から借り受けており、太宰治のオリジナリティと言えるのは全体の1割ほどであった。川端康成はそれを見抜けなかった。

太宰治の名作小説『女生徒』のひみつ

資料の存在は、太宰の死後も非公開にされていた。1996年(平成8年)に『女生徒』のネタ元である「日記」の所有者が青森県近代文学館に原本を寄贈したことで、復刻公開された。

太宰治が他人の「日記」を借用したことは、太宰の死後に美知子夫人も明らかにしていることだ。

「女生徒」は若い女性の愛読者の日記に拠っている。

練馬に住み洋裁教室に通っていたS子さん(大正八年生まれ)は昭和十三年四月三十日から日記を伊東屋の大判ノートブックに書きはじめ、八月八日、余白が無くなったときこれを太宰治宛郵送した。
(中略)
それはちょうど前からの書下ろし出版の約束と新しい原稿の依頼とが重なっているときだったから、彼はこの日記を思いがけず得たことを天佑と感じ、早速この日記をもとにして小説を書き始めた。

(『増補改訂版 回想の太宰治』から引用)

復刻公開された「日記」は、青森県近代文学館が『資料集 第一輯 有明淑の日記』として通信販売している。定価1000円。さっそく取り寄せてみた。

『女生徒』の9割が「日記」からの借用

日記の執筆者は、有明淑という女性だ。「ありあけ・しず」と読む。

『資料集 第一輯 有明淑の日記』は、106ページを収録しているA4サイズの冊子だ。伊東屋のノートに書かれた肉筆のスキャン画像がすべて収録されている。原文だけでなく、読みやすいように翻刻(活字の書き起こし)がほどこされている。

巻末には、ていねいな解説が収録されている。青森県出身の近代文学研究者である相馬正一教授によるものだ。『女生徒』の成立過程だけでなく「有明淑の日記」の記述についてさまざまな批評と考察を述べている。

相馬教授の検証によれば、『女生徒』は「実に作品の九割が日記に依拠していた」と言えるようだ。つまり、太宰治のオリジナルといえるのは1割程度ということになる。現代でいえば「パクリ」だ。

『女生徒』において、もっとも太宰治らしいと思われていた文章でさえ、日記からの模写だったことが判明している。

人のものを盗んできて自分のものにちやんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきは厭になる。

(『女生徒』から引用)

人のものを盗んできて自分のものにちやんと作り直す、ずるさ位ひでせう。本当に、此のずるさには、厭になる。

(『有明淑の日記』から引用)

そのまんま太宰である。もしも現代ならば、2ちゃんねるとTwitterで大炎上するようなパクリ事案だ。はたして日記の原作者は、のちに出版された『女生徒』を読んでどう思っていたのだろうか。

太宰治と日記提供者の関係

後日談がある。『女生徒』の翌年に発表された太宰治の短編小説『俗天使』のなかで「手紙文」が登場する。美知子夫人によれば「有明淑から届いた手紙の原文そのまま」が使われているそうだ。

じつは「手紙文」は有明淑からの礼状だ。太宰は『女生徒』の単行本を、有明淑に贈っていた。『俗天使』の内容は、原稿執筆に行き詰った太宰とおぼしき小説家のひとりごとなので、手紙の流用は「実用と読者サービスを兼ねたもの」と言えなくもない。

太宰のもとへ一方的に郵送した「日記」が文学作品に利用されたことを、提供者である有明淑は喜んでいたようだ。のちに太宰は、知り合いの出版編集者と有明淑の「お見合い」をセッティングしている。両者の良好な関係をうかがわせるエピソードだ。著作権にまつわるトラブルはいっさい無かった。

太宰治と「日記」にまつわる因縁

代表作のひとつである『斜陽』も、愛人であった太田静子の日記をもとにしてつくりあげた小説だ。太宰は、静子に「日記を書いてくれたら1万円あげる」と提供依頼をしていた。そのあたりのエピソードは、太宰の担当編集者が書いた『回想 太宰治』(野原一夫・著/新潮社・刊)にくわしい。

太宰の愛人として有名なのは、最期の心中相手である山崎富栄だ。この女性も「日記」を残していた。太宰とはじめて結ばれた年月日も、それぞれの女性たちの日記にしっかり記録されているという。身から出たさびとはいえ、死んだあとにも有名税を支払い続けているようなものだ。

『女生徒』にまつわる創作秘話は、太宰治という文豪の「抜け目なさ」を感じさせる。結果的には川端康成の「批評眼」を試すことになったからだ。川端は、太宰が他人の日記を模写して作りあげた『女生徒』の本質を見抜けなかったばかりか、太宰本人の筆によるものとして激賞してしまった。

いちどは芥川賞落選によって屈辱を与えられた相手に自分をほめさせることで、名誉回復を果たすと同時に、太宰は「やっぱり川端康成は見る目がなかったわー。おれが正しかったわー。ざまぁwww」と満足していたかもしれない。さぞや痛快であったに違いない。

(文:忌川タツヤ)

文豪失格

著者:千船翔子
出版社:実業之日本社
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