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伊藤計劃がほめていた映画を観る

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2009年惜しくも早逝した作家・伊藤計劃の体は、ほとんど小島秀夫とSF小説と映画で出来ていた。かれが生前につづっていたブログには、映画についての言及が目立つ。趣味嗜好のみにとどまらず、創作者としての血肉にもなっていた形跡がある。

デビュー作『虐殺器官』における終盤のカタルシスは、あきらかに黒沢清監督の映画『CURE』や『カリスマ』を参照しているからだ。オリジナル長編2作目『ハーモニー』の参照先のひとつとしては、映画『リベリオン』を挙げることもできるだろう。

伊藤計劃は、映画の観客だけでは飽き足らず、いちファンとして映画文化の素晴らしさを広めたり、映画人口を増やせないかと模索していた。1990年代後半から個人ホームページで、せっせと映画紹介を書いては公開していた文章が『Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1』(伊藤計劃・著/早川書房・刊)としてまとめられている。

この本をきっかけに、わたしは「食わずぎらい」だった映画をいくつも観た。感想や評価を同じくする映画もあらためて鑑賞してみた。

エネミー・オブ・アメリカ

公開:1999年
出演:ウィル・スミス、ジーン・ハックマン
監督:トニー・スコット

本当に単純な追っ掛けっこのサスペンス・アクションですが、はっきり言って、この春の娯楽映画の中ではかなり面白い部類に入ります。
(中略)
この「単なる追っ掛け」シーンのテンションを「もたせて」いるのが、NSAのオペレーターたちによる衛生追跡映像。衛星軌道からのズーム映像なのですが、ズームアップ/バック・回転・切り替えや、早送り・巻き戻し、光量補正などのデジタル処理が、数フレーム単位でカチカチと目まぐるしくインサートされて、これが(映像として)無茶苦茶カッコイイ。

(『Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1』から引用)

わたしも、この映画が好きだ。2~3年に1度のインターバルで観ている。まさに伊藤計劃がほめている「めまぐるしいカット切り替え」演出がイカしているのだ。そして、ウィル・スミスの全身に仕掛けられた追跡装置を、元NSA局員を演じるジーン・ハックマンが市販されている日用品(ポテトチップスの袋)などを利用して無効化していく手際も見どころだ。

『エネミー・オブ・アメリカ』(1999年製作)においてNSA高官が非合法手段を使ってまで実現しようとした合衆国全土を監視するシステムは、くしくも2001年に発生したアメリカ同時多発テロの成功によって、かならずしも誤りでなかったことが実証されてしまう。

ちなみに、行き過ぎた監視カメラ社会に警鐘を鳴らす映画としては、『LOOK』(2007年公開)もオススメしたい。「安全と引き換えに人々はプライバシーを捨てた」というキャッチコピーで、3000万台以上の監視カメラを通したアメリカ合衆国の真実を「のぞき見」できるモキュメンタリー作品だ。(フェイク・ドキュメンタリーともいう)

エイリアン4

公開:1997年
出演:シガニー・ウィーバー、ウィノナ・ライダー
監督:ジャン=ピエール・ジュネ

この映画はシリーズでおそらく最初のものすごい試みを行っています。それはなんと、「観客をエイリアンに感情移入させる」ということです。
(中略)
「どうして私は生まれてしまったのか? 誰か私を助けてくれ」
この哀しい叫びを理解し、エイリアンを含めた全てのキャラクターを「赦せる」かどうかが、この映画を楽しめるかどうかを決定します。

(『Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1』から引用)

伊藤計劃の映画評を読むまでは、わたしは『エイリアン』シリーズをまともに観たことがなかった。食わずぎらいだった。偏見があった。悪趣味で気持ちわるいだけのB級映画だろうと決めつけていたからだ。

はじめに『エイリアン4』から観た。前半はふつうのSFアクション映画として楽しんだが、中盤あたりで「エイリアン以外にまつわるサプライズな秘密」が明かされたあと、本作が単なるモンスター映画ではなくエンタメと哲学的テーマを融合した第一級の作品であることを思い知らされた。このシリーズを一挙視聴したいと思った。

シリーズ第1作『エイリアン』(1979年。リドリー・スコット監督)にも、わたしが『4』でサプライズしたテーマが織り込まれていた。『エイリアン2』(1986年。ジェームズ・キャメロン監督)でも同様だった。すでに視聴済みの人には「ビショップ」と言えば通じるだろう。

1と2のクオリティに大満足したわたしは、その勢いで『エイリアン3』(1992年)を観た。ガッカリした。「シリーズに通底するテーマ」が欠落しているだけでなく、娯楽映画としてもイマイチの内容であったからだ。

ちなみに『エイリアン3』の監督は、デヴィッド・フィンチャーだ。初監督作品であったものの、製作中にシガニー・ウィーバーとトラブルを起こすなど、さんざんな映画監督デビューだったらしい。しかし、監督第2作目の『セブン』(1995年)の成功によって世界中の映画ファンのあいだにその名をとどろかせた。

ファイト・クラブ

公開:1999年
出演:ブラッド・ピット、エドワード・ノートン
監督:デヴィッド・フィンチャー

私のオールタイム・ベスト10の一本です。
(中略)
主人公が「敵の思い通りに」壊れてしまった「セブン」。自分の決断として死を選んだものの、結局はゲームの一部にしかならなかった「ゲーム」。しかしこの「ファイト・クラブ」はラスト直前までは「セブン」「ゲーム」同様に主人公が大きな力の前に無力であるという構成は保持しながら、最後に自分で選択し、主人公が結末を導くのです。

(『Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1』から引用)

「私のオールタイム・ベスト10の一本」と言い切るだけあって、ストーリー紹介にも力が入っている。ほかの映画作品のときは三人称なのに、この『ファイト・クラブ』に限っては、まるで主人公が憑依したかのように「ぼく」という一人称を用いているからだ。

伊藤計劃が『ファイト・クラブ』評にもちいた一人称の語り口に、わたしは『虐殺器官』の原型を読み取った。クラヴィス・シェパード大尉の語り口に似ているからだ。読めばわかる。

『ファイト・クラブ』の原作小説やデヴィッド・フィンチャーによるフィルムが、生前の伊藤計劃が抱えていた問題意識とシンクロしたのかもしれない。

わたしにとっては2度目の鑑賞だったが、主演俳優のエドワード・ノートンが堺雅人に見えて仕方がなかった。たぶん誰からも賛同してもらえないだろう。

(文:忌川タツヤ)

Running Pictures 伊藤計劃映画時評集1

著者:伊藤計劃
出版社:早川書房
「マトリックス」「シックス・センス」「ファイト・クラブ」「トゥルーマン・ショー」「007/ワールド・イズ・ノット・イナフ」――デビュー以前に著者が運営していたウェブサイト「スプークテール」で書き続けられていた映画時評67本+αを、2分冊で完全集成。数々の名作とほんの少しの「トンでもない」作品が、伊藤計劃のあらたな視点と映画に対する大いなる愛情をもって語り直される。第1巻は44本を収録。

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