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カゼで学校を休んだくせに家でゲームをやりまくっていた

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小学生がカゼをひけばオトナは心配する。熱があるのだから「薬を飲んで暖かくして寝ていなさい」と言われる。朝から晩までずっと寝ているなんて、子どもにとっては退屈きわまりない。昼をすぎたころには飽きてくる。

病欠のすごしかた。神崎良太くんの場合

はじめに、漫画家の押切蓮介さんが小学5年生だったときの病欠エピソードを紹介したい。自伝マンガ『ピコピコ少年TURBO』(押切蓮介・著/太田出版・刊)に収録されているものだ。押切さんは、本名を「神崎良太(かんざき・りょうた)」という。

あるとき、良太少年はカゼをひいたので学校を休むことになった。働きに出ているお母さんは夕方6時まで帰ってこない。いまごろ教室ではクラスメイトたちが苦手な算数を勉強していることを思って、良太少年は布団のなかでほくそ笑んでいたという。

『ピコピコ少年』というタイトルが示すように、良太少年はファミコンで遊ぶのが大好きだった。カゼで休んでいる今日ならば、放課後を待つことなく一日中ゲームをやりまくれることに気付いた。……が、なんとなく罪悪感をおぼえて、とりあえず正午まではテレビを観てガマンしたという。

「カゼで学校を休んでいるときでも午後になればファミコン解禁」という謎ルールを決めて、良太少年は『月風魔伝』や『ファミスタ』などに興じていた。至福の時間だったという。

良太少年は当時11才だったが、引き際くらいは心得ていた。お母さんの帰宅時間を見越して、早めにファミコンの電源を切っておいたのだ。それから布団に戻って、あたかもずっと寝込んでいたように振る舞う。しかし、良太少年のお母さんのほうが一枚上手だった。「ACアダプタの温度」で、我が子がおこなった姑息な隠蔽工作を見破ったのだ。これは当時、全国の家庭で繰り広げられていた光景といえるかもしれない。

病欠のすごしかた。昭和55年生まれの少年の場合

1970年代後半~1980年代前半に生まれた者ならば、良太少年と似たような「病欠のすごしかた」に覚えがあるのではないだろうか。ファミコンを筆頭とする家庭用ゲーム機に日本中の子どもたちが熱中していた時代だ。1980年(昭和55)生まれのわたしも、そのひとりだ。

小学校時代の病欠で記憶に残っているのは、4年生の思い出だ。当時、わたしは親元を離れて、石川県の能登地方に住んでいる祖父母のもとで暮らしていた。転校先のクラスメイトたちと仲良くなれず不登校ぎみになっていた時期があった。

あるときに学校を休んだ。たしかにカゼをひいたはずだが、いまから思えば学校に行きたくないための口実だったのかもしれない。とにかく、わたしは病欠した。

休んだ1日目は熱でもうろうとして、ようやく意識を取りもどしたのは正午すぎのことだった。兼業農家だったので祖父も祖母も働きに出ていた。作り置きしてあったおかゆを温めてテレビを観ながら食べた。2時間サスペンスドラマの再放送やワイドショーがおもしろい。普段は小学校にいる時間帯なので、なにもかもが新鮮な体験だった。

2日目も休んだ。ほとんど熱は下がっていたが、仲の良い友だちもいないから学校に行く理由がなかった。平日に勉強しなくてすむという「うまみ」を知ったせいでもあった。朝の8時をすぎれば祖父母ともに出勤する。「カゼで寝こんでいる」ことになっているわたしは布団のなかで気配をうかがい、誰もいなくなったの確信してから居間にくりだしていく。テレビを観るためだ。

朝のワイドショーと入れちがうようにして、10時からは再放送のテレビ時代劇がはじまる。里見浩太朗の『長七郎江戸日記』、松平健の『暴れん坊将軍』、西村晃の『水戸黄門』、高橋英樹の『桃太郎侍』や『三匹が斬る!』……など。午前10時から11時30分にかけて、各局の時代劇ドラマの再放送があった。A局の『水戸黄門』は10時から始まり、B局の『三匹が斬る!』は10時30分から始まるので、A局の放送内容がつまらなかったら、すぐさまB局に浮気して観るなどしていた。我が家にはVHSデッキがなかったので録画できないがゆえの、綱渡りのようなテレビ視聴方法だった。

正午になると『笑っていいとも』か『おもいっきりテレビ』を観ていた。小学生が絶対に観ることができない時間帯のテレビ番組を楽しめるのは、病欠した少年少女たちの特権だった。

良太少年はファミコンに勤しんでいたが、わたしの相棒はゲームボーイやPCエンジンだった。病欠の昼下がりに、テトリス風ゲーム『ドクターマリオ』で自己ベストスコアに挑戦して、横スクロールアクション『カトちゃんケンちゃん』のシュールすぎる世界観をさまよっていた。なにもかも懐かしい。あのころに戻りたい。

門限をすぎて鍵を閉められたピコピコ少年

『ピコピコ少年TURBO』では、友だちの家でゲームに興じるあまり、いつのまにか門限をすぎてしまい、帰宅しても家に入れてもらえなくなった良太少年のエピソードが収録されている。「少年時代あるある」すぎるので大笑いしながら読んだ。

任天堂ファミリーコンピュータの全盛期である1990年には157タイトル、平均して月10タイトル以上の新作ソフトが発売されていた。当時のカセットの定価は1本5000円前後であり、たいていの家庭では買ってもらえるとしても月1~2本くらいだった。我が家では2~3か月に1本しか買ってもらえなかったので、自分が持っていないゲームをやりたいときは、金持ちの友だちの家に遊びに行くことにしていた。

複数人で遊ぶファミコンゲームでわたしがいちばん熱中したのは、くにおくんシリーズの『熱血高校ドッジボール部』だった。ドッジボールの世界トーナメント戦であり、コントローラーの十字キーで必殺技コマンドを入力すると、カッコいいエフェクト付きのシュートを繰り出すことができた。何百回やっても飽きないほど面白く、人様の家だというのに夜8時をすぎるまで居座ってしまったことがあった。

夕飯の時間をすぎたころに帰宅するのは気まずいものだ。母への言いわけを必死で考えながら、自転車をこいで宵闇のなか家路を急いだ。いま思えば、なぜあれほどファミコンに熱中していたのかよくわからない。放課後にひたすらゲームをやるために毎日生きていたようなものだった。

【参考】シリーズ第1巻『ピコピコ少年』のコラム
「ねずみ色のゲーム機」の思い出。私たちはピコピコ少年だった
(http://fum2.jp/1858/)

(文:忌川タツヤ)

ピコピコ少年TURBO

著者:押切蓮介
出版社:太田出版
あの頃、ゲームが宝石に見えた。大好評ノスタルジック青春グラフィティ、待望の新シリーズ登場!/風邪で学校休んだら家でゲームやり放題「病欠少年」/ゲームしすぎて帰り道の交通費がなくなる「出張プレイ少年」/遊園地に男女10人で行ったのに1人ゲームコーナー状態「今日は華のある日だ少年」/因縁のクラス女子とぷよぷよ対決「愛しさと切なさと憎たらしさと少年」/18歳はゲーセン仲間の輪が一人ずつ減っていくお年頃「失楽園少年」......やっぱりみんな実話です!!

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