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村上春樹が好きなアメリカ人

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指を骨折しているのに、この上もなく幸福そうな人に出会ったことがある。羽田へ向かう飛行機の中でのことだ。
その人は私の隣の席だったのだが、見たところは20代の白人男性で、右の人差し指に添え木をして、包帯をかなり厚く巻いていた。少しだけ見えている指先は紫色になっていて、かなり痛そうだ。
顔をしかめてカバンを前の座席の下に押し込もうとするので、見かねて手伝うと「そんなにびっくりしなくてもいいのに」と言いたくなるほど、全身で驚き、「Thank you」を繰り返す。
私は「困ったときはお互い様です」と、言いたかったが、英語でなんと言うかわからず、「いえいえ」などとごまかした。

アメリカから来たハルキ・ファン

飛行機が離陸すると、彼はいそいそと本を取り出した。
それは日本語の本で、あちらこちらに付箋がついている。
「日本語、読めるんですか?」と、聞くと、「少しだけ」と、はにかむ。
「少しだけって、日本語の本を読んでいるのに?」と、尋ねると、「私はハルキ・ムラカミの本は英語で読んで、全部、暗記しているのです。だから、日本語の文字を見ながら、理解します」と、答えるではないか。
よくよく聞くと、彼はアメリカ人で、大学で村上春樹を学んでいるのだそうだ。
指はうっかりドアに挟んで、大けがをしたのだという。

「あなたが好きな本は?」と、問われて

日本に来たのは、ハルキ・ムラカミの生まれた国を見たかったからだそうだ。
西宮と神戸を夢中で観光し、これから東京へ行って、ハルキ・ムラカミのことを考えながら過ごし、帰国するという。
そして、いきなり聞いてくる。
「あなたはハルキ・ムラカミの本の中で何が一番好きですか?」
ふいをつかれ、焦りつつも、即答した。
「『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』です」と。

心がふるふるする

自宅では、机の横の、手を伸ばせばすぐに触れられる場所に、私は『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を置いている。
まいったなと思ったり、困ったなと思ったり、うまく原稿が書けないなと思ったとき、いつもそのツルツルした背表紙を撫でることにしている。漢方薬の熊の胆のように、触るだけで元気が出てくるのだ。
「英訳があるかどうかわからないけど、あなたも読んでみる?」
そう言うと、彼が深くうなづいたので、私は日本語のタイトルを教えた。
「手の怪我に効くかどうかはわからないけれど、痛みは軽くなるかもしれないですよ」と言いながら。
村上春樹の言葉には、とくにその文体には、読む者の心をふるふると震わし、いたんだ心を癒す力があると思うからだ。

村上春樹の特集号

雑誌『ケトル』のVOL.8(ケトル編集部・著/太田出版・刊)は、村上春樹の特集号だ。
村上春樹についてのエッセイや作品から抜粋された台詞が並ぶ。
長編小説を特集しているので、私の大好きな『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』は取り上げられてはいないけれど、ぐっとくる言葉が並んでいる。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」(『風の歌を聴け』)とか「私を充電して欲しいの」(『ねじまき鳥クロニクル』)等々・・・。
そうかと思うと、小説に登場する東京スポットガイドもあり、写真家からのアプローチもある。さらには、小説で使われた音楽も示されている。
つまり、皆がそれぞれの方法で、村上春樹に近づこうとしているのだ。

にっこりした理由

『ケトル』の存在をそのとき知っていたら、彼に教えたかった。
日本人はこういう風に村上春樹を好きなのよと説明したかった。
羽田に着き、荷物を引っ張り出すのを手伝っていると、今度は彼は恐縮したりせず、代わりにこう言った。
「最初、私はあなたが日本人かどうかわかりませんでした。けれども、荷物を手伝ってくれて、手は大丈夫?と聞いてくれたとき、私はあなたが日本人とわかりました。ハルキ・ムラカミのようです。とても日本的です」
わかったようなわからないような言葉だったが、ハルキ・ムラカミはそのように理解されているのだなと思い、私は嬉しくなり、にっこりした。

(文:三浦暁子)

ケトルVOL.8 村上春樹大特集

著者:ケトル編集部
出版社:太田出版
◆特集◆特集:村上春樹が大好き! 内田樹インタビュー 今、村上春樹を読むべき理由 誰もが主人公になれる小説です。 アイロンがけひとつで世界が変わる! 井戸に潜って大人になろう。 市橋織江から見た 村上春樹の風景 神宮球場/首都高3号線/四ッ谷?市ヶ谷の土手/野方駅前の商店街 このセリフが大好き! 長編小説に登場する東京スポットガイド! ほか

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