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神様っていうのは、日常にこそ降臨するみたいだ

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もしも、の話。自分が二十歳くらいだった頃に、生き方や仕事に関する実用的なことを具体的に語ってくれて、かつちょっと面白い大人が身近にいてくれたらよかったと思う。何でもできると疑わない筆者を「それは無謀だから、やめておきなさい」といさめるのではなく、「人生一度なんだから、とりあえずやっちゃえよ」なんて煽ってくれる大人が。まあ、止める方向の意見をいっさい聞かないでいたからこそ、よかれあしかれ今の自分があるわけで…。

 〝もしも〟の世界に馳せる思い

〝もしも〟の世界は、誰もが思いを馳せる領域のはずだ。あと10年早く生まれていたら、カリスマゲームデザイナーになっていたかもしれない。あと5センチ背が高かったら、パリコレのランウェイでスポットライトを浴びていたかもしれない。センター試験の点数があと15点取れていたら一流国立大学に入って、エリート官僚になっていたかもしれない。もしタイムマシーンがあったら、二十歳の自分に会って、いいことも悪いことも自分の口から直接伝えてやれる。
〝もしも〟が生み出す思いはとどまることなく膨らんでいく。
こうした思いに歯止めをかけるものがあるとすれば、日々の生活においても仕事においてもよりどころとなる絶対的な芯―信念あるいはそれにきわめて近い何か―ということになるだろうか。無条件に、本能的に信じられるものがある人は幸いだ。こうしたしたものがあれば、してしまったこと、しないままになっていることに対する思いで心を乱される時間は確実に減るだろう。

歯止めとしての宗教観

芯となりえる可能性があるもののひとつとして、宗教観が挙げられると思う。宗教ではなく、宗教観だ。宗教的概念と自分との距離感、と表現することもできるかもしれない。
かつて勤めていた会社に、ハードコアなクリスチャンの男性がいた。1年ほど一緒に働いたある日、彼は突然辞表を出すと言い出した。
「なんでそんなに急に辞めるの?」と尋ねると、彼は見たこともないようなキラキラした目でこう言った。
「キリスト教の布教活動をしたいんです。僕のために十字架の上で死んでくれたイエス・キリストに恩返ししなきゃと思って。もう、今しかないんです」
いささかもブレない口調でここまできっぱり言われたら、止める理由なんてあるわけがない。だから筆者は、筆者なりの信念に基づいて「人生一度なんだから、思うように生きればいいじゃない」と答えた。
イエス・キリストへの恩返しという、ごく普通の人間にはおよそ理解できないだろう行いが、あの時の彼にとっての生きるための芯だったのだろう。20年以上も前のこんな場面を思い出すきっかけになったのは、つい最近、ニュース画像で知ったとある人の言葉だ。
「宗教観というのは、信者としてこうあるべきだという定義や行動規範の取り決めではなく、ウェイ・オブ・ライフ、つまり生き方そのものなのです」
こう語ったのは、埼玉県のとある都市で働くイラク人男性だ。彼もまた、筆者の元同僚と同じように目をキラキラさせていた。

神を遍在にする人々

『もしキリストがサラリーマンだったら』(鍋谷憲一・著/CCCメディアハウス・刊)は、キリスト教思想に絶対的基盤を置くビジネスマンたちの人生のシーンを切り取って紹介していくオムニバス形式の一冊だ。でも、キリストその人が現代の日本社会に降臨し、サラリーマンとして送る日々を綴ったわけではない。元商社マンで牧師である著者の鍋谷さんは、まえがきで次のように書いている。

主人公たちはすべてクリスチャンの「人間」です。神様でもイエスでもありません。どうしてもイエスの姿として登場させることはできませんでした。それだと何か、イエスが霊として人間に取り憑き、心的な働きを為させる、というニュアンスが出てしまうことを怖れたのです。

  『もしキリストがサラリーマンだったら』より引用

クリスチャンでありサラリーマンであるそれぞれのエピソードの主人公は、どこにでもいるごく普通の人たちだ。普通がゆえに、怒りもすれば嘆きもする。

踏まれて怒り、蹴られて嘆き、相手のことを恨んでしまっている自分に傷つき、自己犠牲になることからできるだけ遠ざかろうとしている自分を知って悲しみます。

  『もしキリストがサラリーマンだったら』より引用

ただ、どの主人公もキリストの教えを擬人化した姿で登場する。仕事場で明日起こるかもしれないさまざまな場面が、たとえば「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」というキリストの教えを軸に据えて定点観測的に綴られていく。イメージしやすい状況を舞台に、キリストの教えをフィルターにして語られるお話の数々はノンフィクションに限りなく近い響きで伝わり、教会などのフォーマルな場で語られる話よりずっとのみ込みやすい。
どこにでもありそうな場面を舞台に語られるからこそ、聖なる存在のオムニプレゼンス=遍在性が際立つ。そして、神や神性を遍在ならしめている決定的な要因は、〝もしも〟の世界に思いを馳せ、怒り、嘆きながらごく平凡な毎日を繰り返しているわれわれ人間にちがいない。

(文:宇佐和通)

もしキリストがサラリーマンだったら

著者:鍋谷憲一
出版社:CCCメディアハウス
「この本は、長い間商社で働き、サラリーマンとして経験した生々しい問題をキリスト教の聖書を教える側から取り上げると、どうしたらうまく対処できるか、どのような生き方が生まれるかを具体的に説いた素晴らしい本だと思います。壮・中・高年の方々にお勧めします。」日野原重明(聖路加国際病院理事長)
「世界経済はキリスト教国家が支配している。キリスト教を知らずして経営は語れない。その意味で聖書は最高の経営書であり、その中には経営のエッセンスが詰まっている。ところがここに聖書以上の経営のバイブルが誕生した。なんたってキリストがあなたと同じ悩めるサラリーマンなんだから!」江上剛(作家)

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