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戦後70年。1人の少女の生涯から平和について考えてみたい

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今年、平成27年(2015)は、第二次世界大戦の終戦から70年となる節目の年だ。広島に投下された原子爆弾の戦禍を伝える「広島平和記念公園」は、日本人なら一度は訪れておきたい場所といえる。

さて、公園内に立つ「原爆の子の像」をご存知だろうか。台座の上に立つ少女は、両手で一羽の大きな折鶴を掲げている。モデルとなったのは、2歳で被爆した佐々木禎子という少女だ。

広島市に生まれた1人の少女

『禎子の千羽鶴』は、禎子のお兄さんにあたる佐々木雅弘氏がまとめた本だ。

禎子は昭和18年1月7日、広島市に生まれた。出産予定日よりも1週間ほど早く、助産師さんのもとへ向かう輪タク(当時の人力タクシー)の車内で生まれたというエピソードがある。禎子の“禎”の文字は“幸せを掴む”という思いを込めて、命名されたのだそうだ。

当時の広島市は日本でも有数の軍都であり、市内には軍事施設が多かった。しかし、雅弘氏によれば、戦時中であったものの市内で暮らす人々の間では平穏な日々が続いていたのだという。そう、あの日が来るまでは。

昭和20年8月6日

昭和20年8月6日、午前8時15分。佐々木一家は爆心地から約1.6キロの地点にあった自宅で被爆した。

自宅は爆風によって外形を留めないほどに倒壊した。家の畳はすべてめくれ上がり、自転車も吹き飛ばされてしまった。ところが、佐々木家は奇跡的に家族全員が生き残ることができたのだ。禎子はというと、奇跡的にかすり傷一つなく、何事もなかったかのようにミカン箱の上に座っていたのだという。

白血病の発症

同年8月15日、日本は敗戦を迎え、家族全員での再出発となった。戦後間もない頃の佐々木家の生活は、つつましやかながら幸せな日々だったという。禎子はすくすく成長した。小学校のクラスメイトのなかでも走るのが速く、跳び箱も得意と、運動神経抜群な少女だった。

ところが、原爆投下直後を生き延びた人々には地獄が待っていたのである。原爆による放射線の影響は何年にもわたって残る。潜伏期間のうちに着実に人の身体を蝕んでいく。原爆投下から数年後、禎子は小学6年生のときに白血病を発症してしまった。

病床で折鶴を折り始める

禎子は、昭和30年に広島赤十字病院に入院すると病床で折鶴を折り始めた。鶴を折り続ければ病気が治るという話を信じ、ただただ無心で折り続けたのだ。当時は折り紙は高価だったため、セロファンや薬の包み紙を使ったという。

しかし、その年の10月25日、禎子は帰らぬ人となった。12歳という若さだった。禎子が折った鶴の数は1000羽を超えるとされる。その後、禎子の死を新聞で知った市民の間から、原爆で亡くなった子供たちを慰める像を建立する運動が起こった。こうして、「原爆の子の像」が誕生したのである。

原爆で犠牲になった子供たちへ

「原爆の子の像」のモデルは禎子だが、この像は原爆によって亡くなった多くの子供たちの霊を慰めるために立てられたものだ。台座の下にある石碑にはこう刻まれている。

これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための

我々の平和な暮らしは、こうした多くの名もなき人々の犠牲の上に築かれたものといえる。戦後70年を迎えた今年、その重みをもう一度見つめなおしてみたい。

(文:元城健)

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禎子の千羽鶴

著者:佐々木雅弘(著)、くまおり純(絵)
出版社:学研パブリッシング
広島で原爆にあい、10年後に原爆症となった少女・佐々木禎子さん。12歳で亡くなるまで、周囲の人を思いやり、明るくふるまいながら千羽鶴を折り続けた禎子さんは「原爆の子の像」のモデルとなりました。実の兄がはじめて書いた禎子さんと家族の物語。

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