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90畳の部屋で150人の子どもが求めたもの

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私に子どもが生まれてから、戦争体験が伝えられるたびに気がかりなことができた。それは、戦災孤児のこと。戦時中、都市部の家庭の子ども達は学童疎開し、田舎で集団生活を送っていた。そして終戦後、待てど暮らせど親が迎えに来ない子どもが多くいた。家族は空襲などの被害に遭い、亡くなってしまったのだ。彼らも含めた戦災孤児は、その後どうなったのだろう。

戦災孤児のための施設

昭和22年、厚生省が全国孤児一斉調査結果を行った。それによると20歳未満の孤児は123,511人。そのうち戦災孤児は28,247人、引揚孤児が11,351人、棄迷児が2,647人、その他81,266人が一般孤児だった。この一般孤児の中に多くの学童疎開者がいたと推測されている。ほとんどは親戚に引き取られた。280カ所の孤児施設に引き取られた子も12,202人いたが、駅で寝泊まりをする子も4,201人いたと記録されている。

学生時代に、児童養護施設で子ども達に勉強を教えるボランティアをしたことがある。その時までは、そうした場所では、身寄りのない子ども達が暮らしているととばかり思っていたけれど、そこは、そうではなかった。親御さんは生きている。けれど何らかの事情で会うことができない。その事情は子どもによってそれぞれで私も深くは聞いてはいない。ただはっきり感じたのは、子ども達は勉強を教わるだけでなく、愛情もとても求めていたことだった。

誰が孤児の世話をしたのか

私が通った児童養護施設では、職員が交代で寝泊まりをし、子ども達の世話をしていた。子ども達は「お兄さん」「お姉さん」と彼らを呼び、家族のように慕っていた。私のことも「お姉さん」と呼んでくれて、ボランティアを終えた後も何年も年賀状のやりとりが続いた。彼らは家族の絆のような温かみを交流の中に求めていた。それはきっと、戦災孤児もそうだったに違いないのだ。しかし戦後の混乱期の中、いったい誰が子どもらの世話をしたのだろう。

実話絵本『五百人のお母さん』(高橋うらら(文) ひだかのり子(絵) 田代脩(監修)/学研教育出版・刊)には、私が思い至らなかった答が、そこに書かれていた。鎌田十六(かまたとむ)さんは、東京大空襲で夫も赤ん坊も亡くし、ひとりぼっちになってしまった女性。彼女は終戦後、上野駅にいた大勢の戦災孤児を見た時、死んだ赤ん坊が「私の代わりにこの子達の世話をして!」と訴えかけてきた気がして、施設で働く決意をしたのだという。

母のない子と子のない母と

90畳の部屋に暮らす150人もの孤児。彼らに十六さんは自分のことを「お母さん」と呼ばせ、寝食を共にして世話をした。家族がいない十六さんだからこそ出来たことである。そして常にそばにいてくれる実の家族のような十六さんの存在に、子どもたちはどれほど安心できたことだろう。そして十六さんも、世話をする子どもたちがいて、どれほど生きる張り合いができたことだろう。子どもを亡くした十六さんと、母親を亡くした子どもたち。心に深い傷を負った双方が助け合い生きていく様子に、胸が痛くなった。

時は移り、平成25年時点の厚労省の調査によれば、児童養護施設に暮らす子どもは29,979人。施設に暮らした戦災孤児の倍以上の数なのだ。冒頭にも書いた通り、児童養護施設に暮らす子どもたちの多くは、親を亡くしたわけではない。親の死亡もしくは行方不明による入所は全体の6.5%である1,942人である。そして施設で暮らす子のうち虐待を受けたことがある割合は実に59.5%。この数値を見るだけでも、なぜ彼らが親と離れて暮らさなくてはならないのか、その理由のひとつは容易に想像がつく。施設に暮らす子どもたちに、親代わりの温かい愛情を注ぐ十六さんのような職員さんが寄り添っていることを、願わずにいられない。

(文・内藤みか)

 

五百人のお母さん

著者:高橋うらら(文) ひだかのり子(絵) 田代脩(監修)
出版社名:学研教育出版
現代の子どもたちがなかなか聞くことのできない戦争のお話を体験者に取材した絵本。東京大空襲の猛烈な炎から逃げる途中、子どもと夫を失った鎌田十六さん。戦後、戦災孤児の苦しい生活を目の当たりにした彼女は保護施設で働き始め、多くの孤児の母親となる。

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