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何かが見えてしまったことないですか?

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ジョン・ナッシュという数学者をご存知の方も多いだろう。
映画「ビューティフル・マインド」のモデルとして知られ、プリンストン大学で数学を講じる学者である。ノーベル賞も受賞しており、世界有数の頭脳を誇る人物だ。
と、同時に、彼は「見てしまう」人でもあった。
若い頃から統合失調症を患っていて、見えないものが見えてしまう。その結果、奇矯な行動を取ることでも知られていた。

幻覚に苦しむ人たち

ナッシュだけではない。見えないものを見てしまう人は多い。
神経科医であり、コロンビア大学医科大学院の教授でもあるオリバー・サックスは、その豊富な臨床経験から、幻覚を見る、あるいは幻覚に苦しむ人たちに、医者としては冷静な視線を注ぐ。一方で、個人的には暖かな共感をもって、寄り添うように接している。
たいていの人間は、そこにないものを見たり聞いたりすると、ただひたすらにうろたえる。できることなら隠しておきたいと思うだろう。
しかし、サックスは彼らに「大丈夫だよ。安心して」と、語りかける。

実は、私も見てしまったことがある

実は、私もかつているはずのない人に会って、驚いたことがある。
自宅で原稿を書いているとき、一人の外国人男性の幻影を見てしまい、どうしようかと焦った経験があるのだ。
その見知らぬ人は突如、我が家の居間に表れて、覆い被されるような体勢で新聞を読んでいた。
私はどうしていいかわからなかった。
自分の頭と目がおかしくなってしまったのだろうかと、不安でたまらず、頬をつねったりした。
しばらくの間、彼は私に寄り添い続け、そして、ある日、「もう大丈夫だからね」と、優しく言って、去っていった。
大丈夫なのか自分でもわからなぬまま、私は彼を失ったまま生きてきて、そして、今も生きている。

幻覚は脳の働きゆえか?

幻覚や幻聴を、多くの人は内緒にする。
気味が悪いと思われるのは嫌だ。たとえ誰かに打ち明けたところで、何かが解決されるはずもない。
しかし、オリヴァー・サックスの著書『見てしまう人びと』を読めば、そこに救いを見出すことができる。

”幻覚はけっして狂気のしるしではないことを、それどころか脳の働きを洞察するための貴重な情報源であることを、広く世間に伝えたいという思いで、この本を書いている
(『見てしまう人びと』訳者あとがきより引用)

というのだから。

最期に見るものは何だろう?

幻覚を見る、または見てしまう人びとの多様性、ものを見るとはどんな意味があるのか。
それを知るために、『見てしまう人びと』は最適の書だ。
ところで、私が一番、この本の感想を聞いてみたいと願う数学者ジョン・ナッシュは、5月23日、妻のアリシアと共に、交通事故で亡くなった。素晴らしい業績を残した数学者に与えられるアーベル賞の受賞式の帰り道だったという。
そのニュースを震えながら聞いた私は、以来、ジョン・ナッシュが最期に見たものは何だったのだろう?と、考えて続けている。

(文:三浦暁子)

見てしまう人びと

著者:オリヴァー・サックス(著) 大田直子(著)
出版社:早川書房
幻覚とは外的現実がまったくないのに生まれる知覚、つまりそこにないものを見たり聞いたりすること。しかしサックスによれば、幻覚は狂気の徴候でも不名誉なことでもなく、それは他に類のないカテゴリーの意識であり、精神生活であるらしい。驚くべき、しかし人間のありようの根幹を伝える実例について共感をもって語る、サックス待望の医学エッセイ最新作。

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