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こだわりや執着が強い人は不幸になりやすい

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悩みがある。生きるのがつらい。べつに死にたいわけではないけれど、だからといって積極的に生きたいわけでもない。貯金もない。若くもない。こんな人生やってられない。気晴らしにドローンでも飛ばそうかな〜。

みじめな毎日だ。だれか助けてほしい。どうかお救いください。神さま、仏さま、魔法少女まどか☆マギカさま!

なにか宗教でも信仰してみようかな。すこしは気持ちが楽になるかもしれない。いちばん身近なのは仏教だ。もしも出家するとしたら、換えの下着は何枚まで持ち込んでいいのだろうか。

お布施とはあらゆるものを手放すこと

世のため人のためとか言っているくせに、仏教のお坊さんはどうしてお経をあげたり戒名をつけたりするのを無料でやってくれないのか。かならず「お気持ち」や「お布施(おふせ)」を求められる。タダではやってくれない。

読むだけ禅修行』(ネルケ無方/著)によれば、そもそもお布施とは「寄付」だけのことを指すわけではないという。

禅宗では、なにかを「手放す」ことをすべてお布施と見なす。それは「執着を捨てること」であり「小さな額のお布施も、身近な人にかけた思いやりの言葉」も、すべてはお布施なのだ。たとえば、嫌いな相手と顔を合わせてしまったとき、憎しみを手放して、こちらから気持ちよく挨拶ができたなら「お布施」したことになる。

外国人が住職をつとめる禅寺がある

禅宗における「手放し」は、執着やこだわりを捨てなさいという教えだ。禁欲的でさぞや修行は厳しいのだろうと思ってしまうけれど、ひたすら我慢したり無欲でいればよいわけでもない。

兵庫県に「安泰寺」という禅道場がある。ドイツ人のネルケ無方さんが住職をつとめている。ネルケさんは、母国にいるときから禅僧を志していた。大学で哲学と日本史を勉強したあと、留学生として来日して、ついに安泰寺への入門を許された。

出家した記念すべき日の夜に、安泰寺の先代住職がネルケさんのためにご馳走を用意してくれた。メインディッシュは……なんと「ステーキ」だった。ネルケさんは菜食主義者であり、そもそも仏教の戒律では「殺生」が戒められているはずだ。外国人を歓迎するためのジョークなのだろうか?

修行1日目から禅の真髄を叩きこまれる

戸惑いながらネルケさんが言った。「たった今『不殺生戒』を受けたわたしは、なにも肉を食べるためにお坊さんになったのではありません。そんなもの、犬にでもやってください」

だが、すでに禅の修行は始まっていたのだ。ステーキを口にすることを拒否したネルケさんに対して、先代住職は次のように答えた。

「そのステーキの身になってみなさい。とにかく食べてもらおうとお祝いの席に出てきたのに、『そんなもの、食いたくない』と言われたら、どう思うのか? また、この肉をあなたのために布施してくれた人の気持ちを考えたことがあるのか? あなたの今の発言こそ、『殺生』の極まりだ」

このエピソードは、禅宗の底知れなさがよくわかるものだ。座禅を組んだり経典を学ぶことだけが修行ではない。

こだわらないというこだわりにこだわらない

ネルケ住職は「禅の考えでは、生活そのものが修行です。禅の実践はつまり、ただ生きること」だと言う。

悟りをひらくために必死で修業するのは「執着」を増やすだけであって、そんなものは「禅の修行」ではない。生活を「ただする」ことだけが修行になりうる。

苦しみの元である「執着」を手放せないうちは、決して自由にはなれない。禅宗における自由とは「自己に由る」ことだ。「自己以外によりどころがあれば、そのものに支配されてしまう」から、禅僧たちは欲望や社会制度からできるだけ離れた生活を心がけている。

禅の道に終わりはない。その教えに忠実にしたがえば「執着を手放そうとする考え」それすらも手放さなければいけないからだ。「こだわらない」という「こだわり」を捨てる。それこそが禅の道なのだ。

(文:忌川タツヤ)

読むだけ禅修行

著者:ネルケ無方(著)
出版社:朝日新聞出版
顔を洗う、布団をたたむ、食事をいただく、掃除をするなど、生活そのものが修行だというのが禅の考え方。自分の外に答えを求めるのではなく、「今ここ」に立ち返り、ただすべきことをする。そうすれば、どうすればいいかわからない……そんな悩みからだって自由になれる。小さな禅寺で自給自足の日々をすごすドイツ人住職が語りかける、カタチにとらわれない禅修行の始め方。

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