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維新の構想が、未完で終わってしまったワケ

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2015年5月、大阪都構想の是非をめぐって住民投票が行われた。結果は、わずかな差で反対票が上回り、大阪都の実現はひとまず見送られることになった。

ご存じのように、中心人物は橋下徹市長だ。立ち上げた政党は「大阪維新の会」という。明治維新にあやかった名称だ。

大政奉還と江戸無血開城によって、265年も続いた徳川氏の天下が終わった。当時の「維新」は住民投票ではなく、薩摩藩と長州藩の軍事力によって成し遂げられた。

重要な役割を果たした「西郷隆盛」「大久保利通」「木戸孝允(桂小五郎)」は、維新の三傑といって称えられたが……かれらは無念の死を遂げている。

西南戦争は無謀だったのか?

たとえば、西郷隆盛は自刃している。クーデターである西南戦争に敗北したからだ。それは明治10年の出来事だった。幕末における革命軍のリーダーであり、最大の功労者である西郷が、なぜ維新の成果をみずからブチ壊しかねないような反乱を起こしたのだろうか?

歴史の教科書には「征韓論がきっかけで新政府メンバーと対立した」ために職を辞したと書かれていることが多い。当時の新政府は、内政重視派に勢いがあった。その者たちにとっては、当時の清(中国)との戦争を見越していた西郷は目の上のタンコブだった……という説明が「よく知られている」ものだ。

西郷が新政府を去ったのは明治6年だ。しかし、その翌年に政府は台湾出兵をおこなっている。つまり対外戦争だ。あれ? 内政重視の方針はどこへいってしまったのか。つじつまが合わない。

当時、新政府内において西郷を陥れるための陰謀があったのだろうか? じつは、西南戦争という不可解なクーデターをひもとくためのカギは「富国強兵」という有名なスローガンにあるのだ。

ここからは『未完の明治維新』(坂野潤治/著)を参考に説明していきたい。

「富国」と「強兵」は相容れないものだった

維新政府の最終目標は「対等開国」だった。黒船来航をきっかけに江戸幕府が締結してしまった不平等条約を撤回しなければいけない。当時のアメリカなどと対等に交渉をおこなうためには、日本の産業や軍備の近代化が必要だった。それを実現するための方針が「富国強兵」だ。

そもそも「富国」や「強兵」という考え方は、幕末の思想家によって確立されたものだ。

富国論』は、お米中心の石高制から貨幣制にあらため、日本の経済を効率化して、さらに外国と盛んに交易をおこなうことによって国力を高めようというものだ。熊本藩士である横井小楠が提唱した。

海防論』は、すなわち強兵論だ。近代的な軍艦を配備することではじめて外国との対等な交渉が可能になる理屈を説いたものだ。強兵論を唱えたのは、松代藩士の佐久間象山だった。

富国論と強兵論は、対等開国を目指そうとする者たちの思想的支柱だった。しかし、発足したばかりの明治政府にとって「富国」と「強兵」は相反するものであった。軍備増強にカネがかかるのはもちろんのこと、産業を発展させるにしても多額の投資を要する。当時の財政には、ふたつを同時におこなえるほどの余裕がなかった。

財政難と一揆と西郷におびえていた新政府

大政奉還のあと、すぐに戊辰戦争が勃発する。武器弾薬や兵糧、軍艦の燃料などを調達するためにカネを湯水のように使った。薩摩や長州の財政は火の車だった。

戊辰戦争に勝利したあと、廃藩置県を断行した。わかりやすくいえば、新政府が日本中の藩の全財産を没収する政策だ。これですこしは財政が潤うかと思いきや、じつは幕末の各藩はどこも債務超過に陥っていた。大名の兵権や徴税権を奪う代わりに、新政府は借金の肩代わりを申し出た。みんな喜んで大名を辞めた。廃藩置県という大改革がスムーズにおこなわれたのは、そういう事情があった。

明治6年には地租改正をおこなった。米を納める方式から、土地の面積や収穫量に応じた金額を納付する方式に変えたのだ。これで財政基盤が安定するかとおもいきや、まもなく農民一揆が発生した。高すぎる税負担への抗議だった。

政府は一揆をひどく恐れた。なぜなら、同じころに西郷隆盛が政府を辞めたからだ。維新の英雄である西郷は、その気になれば全国の不平士族や農民たちを訓練して動員することができた。ビビった新政府は、大規模減税を実施した。財政は苦しいままだ。富国も強兵もはかどらず、足踏み状態がつづいていた。

明治7年には台湾出兵をおこなう。当時の清(中国)と日本が、琉球王国(沖縄)の所属を争ったものだ。財政的には、戦争をしている余裕はない。だが、全国にあふれかえっていた数十万人の不平士族の不満のはけ口として出兵に踏み切らざるをえなかった。皮肉なことに、勝利した日本は多額の賠償金を得ることができた。

これでは何のために「強兵」派の西郷を追い出したのかわからなくなってしまう。西南戦争が終結する明治10年まで、新政府の方針は定まらず「富国」と「強兵」のあいだを行ったり来たりしていた。

維新の志は、永遠に……

西南戦争といえば、なんとなくヤケクソのようなイメージがある。だが『未完の明治維新』によれば、西郷隆盛には十分な勝算があったという。ふたたび新政府内の主導権を奪取したのちには、朝鮮半島を足がかりにして清やロシアへ攻めこむつもりだったらしい。

結局、西郷は敗れて自刃した。おなじ年に、長州閥の首領だった木戸孝允は病死する。翌年には、大久保利通が暗殺される。志なかばで倒れた彼らにとって、いまだに明治維新は未完のままだ。

西郷隆盛をはじめ新政府の要人たちは、財政難という制約のなかで「富国」か「強兵」のいずれかを選択する必要に迫られていた。つまり、対等開国に向けたプロセスの相違によって争っていたにすぎない。あくまでも日本国の行く末を真剣に考えていたがゆえの政争であって、かれらに私心はなかったのだ。

(文:忌川タツヤ)

未完の明治維新

著者:坂野潤治
出版社:筑摩書房
明治維新は尊王攘夷と佐幕開国の対立が一転して尊王開国になり、大政奉還の後に王政復古と討幕がやってくるという、激しく揺れ動いた革命だった。そのために維新が成就した後、大久保利通の殖産興業による富国、西郷隆盛の強兵を用いた外征、木戸孝允の憲法政治への移行、板垣退助の民撰議院の設立の四つの目標がせめぎあい、極度に不安定な国家運営を迫られることになった。様々な史料を新しい視点で読みとき、「武士の革命」の意外な実像を描き出す。

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