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“頼むから仕事をさせてくれ” 巨匠・手塚治虫が最後に残した言葉

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手塚治虫は、戦後日本のマンガ・アニメーション界を開拓し、牽引した立役者といえるだろう。
「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラック・ジャック」など、読んだことがなくても作品やキャラクターの名前を知っている人はたくさんいるはずだ。60歳で亡くなるまでに描きためた原稿は、なんと15万枚とも言われている。

マンガの“虫”だった少年時代

「手塚治虫の名前は知っているけれど、そもそもどんな人なの?」という人は意外に多いのではないだろうか。
手塚治虫 壁を超える言葉』から手塚が残した言葉を引用しつつ、マンガ家としての歩みを振り返ってみよう。
昭和3年、手塚は大阪府豊中市に生まれ、5歳のころに兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)に引っ越した。少年時代は昆虫採集に明け暮れ、オサムシという虫に興味を持ったことから“治虫”というペンネームを思いついたと言われる。また、母に連れられて宝塚少女歌劇を何度も見に行った体験が、後に日本初の少女マンガである「リボンの騎士」に生かされている。そう、戦う少女モノのマンガも手塚治虫から始まったのだ
第二次世界大戦が勃発し、軍事色の濃い世の中になっても、手塚はマンガを描くことに没頭した。エッセイ漫画「紙の砦」によれば、教官に怒鳴られながらも描くことだけはやめなかったという。
昭和20年、終戦。多くの日本人が打ちひしがれているとき、手塚はこう叫んだという。

これで漫画が描けるぞ!

終戦を機に、溜まっていた手塚の創作意欲はマグマのように溢れ出していったのである。

 圧倒的な人気の後、長い低迷を味わう

昭和22年に出版され、手塚の出世作となった「新寳島」は、娯楽に飢えていた少年たちを虜にした。藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎など多くの少年たちがこの作品に影響を受け、マンガ家を志したといわれる。
昭和20年代は「ロストワールド」「メトロポリス」「ジャングル大帝」など、矢継ぎ早に新作を発表し、ヒットを連発した。昭和38年には日本初のテレビアニメーション「鉄腕アトム」の放送が開始され、平均視聴率30%という驚異的な数字を叩き出した。人気は不動のものとなっていたのだ。
ところが、昭和30年代後半から昭和40年代にかけて台頭してきた劇画に人気を奪われ、思うようにヒットが出ず、低迷することになった。アニメーション制作会社として手塚が設立した虫プロダクションもこの時期に倒産し、莫大な借金を背負うことになった。ちなみにこのころに発表された作品は、読んでいて暗い気持ちになる陰鬱な内容が多い。手塚はこの時期を“冬の時代”と呼んでいる。

人気が復活した傑作「ブラック・ジャック」

昭和40年代前半、続々と若手の人気マンガ家があらわれるようになったため、手塚はすでに過去のマンガ家だと思われていた。
しかし、人気が復活するきっかけとなったのが、昭和48年に連載が始まった「ブラック・ジャック」と、翌年の「三つ目がとおる」だ。まるで水を得た魚のようにひたすら原稿に打ち込み、時には月産600枚を仕上げることがあったという。
「ブラック・ジャック」の原稿中、こんなエピソードがある。締め切りはとっくに過ぎており、印刷所に職員が待機しているというギリギリの状態。20ページの原稿が、いよいよ残り1ページで完成・・・というところだった。しかし、手塚は作画を進めつつも納得がいかなかったらしく、アシスタントに意見を求める。すると、あるアシスタントがうっかり「いまいちですね」と答えてしまった。
その言葉を聞いた手塚は、こう言ったという。

8時間くださいと伝えてくれませんか。全部、描き直します。

8時間で20ページを仕上げるなどもはや人間技ではないが、手塚はそれを成し遂げてしまった。そしてその原稿は、これまでの作品より遥かに面白い内容に仕上がっていたという。どんなに苦しいときでも、最高の漫画を描くために一切の妥協をしなかったのだ

病床でも消えなかった創作への情熱、執念

手塚は生涯を通じて、まったく創作意欲が落ちることがなかった。晩年、NHKのインタビューにこう答えている。

あと40年ぐらい描きますよ。アイデアだけはバーゲンセールしてもいいくらいあるんだ。

しかし、このインタビューの数年後には入退院を繰り返すようになり、病状が悪化。平成元年2月9日に帰らぬ人となった。
死因は胃癌だったが、「過労死だったのではないか」と話す人もいる。というのも、亡くなる直前まで連載3本にとどまらず、アニメの制作も抱えていたためだ。絶筆となった作品の一つ「ネオ・ファウスト」に至っては、病床で描いたであろう下書きが残されている。また、日記の最後のページには新しいマンガのアイディアが書きこまれていた。
意識がなくなりつつあった手塚が残した最後の一言を紹介しよう。

頼むから仕事をさせてくれ

最後まで漫画界の第一線にいることに拘り続けた、まさにマンガの“虫”であり、仕事の“虫”であったのだ

(文:元城健)

手塚治虫 壁を超える言葉

著者:手塚治虫、松谷孝征
出版社:かんき出版
人生の壁を超えるための、勇気と情熱をあなたに。
「僕だって、描くんだったら一位になりたいんです」 「原稿料は絶対に上げないでください。仕事がこなくなります」 「僕は描きたいんです。描くことなら、いくらでもある」 「頼むから仕事をさせてくれ」
「漫画の神様」と呼ばれた巨匠、手塚治虫。 彼が遺した言葉と、その背後にある人生哲学とは。 生涯で15万枚もの原稿を描き上げ、アニメーション制作に奔走し、入院中もペンを握っていた手塚氏。情熱のまま自分の可能性に挑戦した彼は、その地位や才能に甘んじることなく、常に努力をし続けました。 亡くなる直前まで限界に挑んだ手塚治虫が遺したのは、人生を「本気で生きる」ためのメッセージ。決して平坦ではない人生を、前向きに送るためのヒントを見つけられる1冊です。

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