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「片付け」ブームに乗っかる前に「けち」であれ!

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新商品が売り出されるたびに、前日からお店の前に並ぶ客がいる。テレビカメラに向かって「昨日のお昼から並んでいます。やっぱり誰よりも先に手に入れたいですから!」と嬉しそうに語る。なぜ、「誰よりも先に手に入れたい」のだろう。少しの共感もできない。

新商品を買うお客をハイタッチで迎えるお店

その手のお店では、並んでいた客を店に招き入れるときに、ハイタッチで迎えることすらある。新商品の発売をお客さんと店員で祝い合うのだ。「新しいものを一目散に手に入れたい」という意識をまったく優先させない人間からすると、「わざわざ消費しにきました」と高らかに宣言することに恥ずかしさが宿らないのかと不思議になるのだが、インタビューで「誰よりも先に」と答えていたことからも明らかなように、あそこでハイタッチするのは、互いが互いを成果として認めているからなのだろう。

手にしていないものを手に入れることで欲望が満たされる。このお店での出来事は、日常生活のあり方でも変わらない。「出世をしたい」と思い、その念願が叶って出世をする。そうすると今度は「もっと稼いで優雅な生活をしたい」と欲望が更新されていく。欲望の更新、まさに新商品開発は欲望が更新されるからこそ生み出され続ける。

すぐに別の欲望が頭をもたげてくる

ひろさちや『「けち」のすすめ 仏教が教える少欲知足』は、現代人は「けち」にならなければいけない、と諭す。「一つの欲望が満たされるやいなや、また別の欲望が頭をもたげてくる。そうした毎日を生きているのが、今の資本主義社会を生きる人間」であり、こうなると「抱える不安の原因を社会だけのせい」にしてしまい、「けっきょく社会が変わらなければ自分の不安も解消されないということになり、今の不安がさらに深刻化してストレスは蓄積されていく」とする。

前向きな欲望だけが反復されるならばまだしも、当然、社会の不安もセットで背負うことになる。だからこそ、「けち」が有効だと著者は繰り返す。見栄を張り、自分の欲望を求め続ける限り、つまり、「○○と見られたい」「○○でありたい」という状態を希求し続けると、人は欲望に翻弄されてしまう。

「少欲」と「無欲」の違い

仏教に「少欲知足」という教えがある。
著者は、この教えに「けち」の本質が全て由来すると記す。

『多欲の人は多く利を求むるがゆえに、苦悩もまた多し
少欲の人は求むることなく、欲無ければ、すなわちこのうれい無し
もし諸々の苦悩を脱せんと欲すれば、まさに知足を観ずべし
知足の法は、すなわち是れ富楽安穏の処なり』

「知足」、つまり「足るを知る」ということ。「けち」というと、1円まで割り勘しようとするとか、試食コーナーでお腹を満たそうとするとか、そういった程度の低い具体例を思い浮かべがちだが、著者が「少欲知足」から導こうとする「けち」は、こういった「けちくさい」とは別のもの。「足るを知り、暮らしの身の丈にあった日々を過ごせば、おのずと不安にさいなまれることはなくなりますよ」ということ。これは決して「無欲」ではない。もっと実践的なものなのだ。

「けち」は積極的な振る舞いである

問題が起きると、問題を解決しようとするのが人間。しかし、著者は書く。
「『問題というのは解決できないものなんだ』と、その事実を認識して、そのまま生きていく智慧をもちなさいとほとけさまは教えています。そもそも、問題を解決したいと望む心は『欲望』なのです」。

昨今(にかかわらずだが)、片付けがブームになっている。片付ける行為は、欲を断ち切るわけではなく、あくまでも欲をスリムにする行為。「問題を片付ける」と言うように、「片付け」は「解決」に近い言葉でもあり、そうなると「欲望」とも近くなる。「けち」は違う。ネガティブに捉えられやすい言葉だが、「足るを知る」という、積極的に自分の立ち振る舞いを策定してくれる考え方なのだ。

(文:武田砂鉄)

「けち」のすすめ 仏教が教える少欲知足

著者:ひろさちや
出版社:朝日新聞出版
人間の不安の原因は「欲望」にある。資本主義経済が生んだ大量消費社会で、地位や名誉、財産など、他人と比べるから不安を抱く。心の平安を手に入れるためには、欲張らずに足るを知って「けち」になることが大事だと説いた癒やしの書。

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