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「戦力外選手」より注目されなかった「ドラフト外選手」を知っているか?

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プロ野球選手になるにはドラフト会議で球団から指名されることが条件となるが、1990年までは「ドラフト外」入団という枠が設けられていた。ドラフト会議では声がかからず、その後、球団との交渉やテストを受けるなどして入団する。待望の新人として記者会見でフラッシュを浴びる選手とは、まったく扱いが異なるスタートだ。 

監督から「おっ、そうか、ゆっくりしてこい」と言われた

澤宮優『ドラフト外』は、その多くが数年で野球界を去っていく「ドラフト外」から這い上がった11人を追うノンフィクション。2000本安打を達成した横浜の石井琢朗、広島が誇る左腕・大野豊など、球史に名を刻む選手が「ドラフト外」からキャリアをスタートした事実に改めて驚かされる。幼少期、大の西武ライオンズファンだったことも手伝って、通算265犠打(当時)の日本新記録を達成したバントの名手・平野謙のエピソードが特に響く。

平野がまず入団したのは中日ドラゴンズだった。ドラフト外での契約となった平野は、入団テストすらなく「年俸は最低の最低」(平野談)で、背番号「81」をもらい「この背番号を見た時点で、あんまり期待されてないと思った」という。ルーキーにとっては真っ先に才気が問われることとなる初年度のキャンプ時に、大学の卒業試験を受けるべく、大学に戻りたいと監督に相談すると「おっ、そうか、ゆっくりしてこい」との返事。

「バント」にスポットを当てさせたドラフト外選手

投手として入団した平野はやがて野手にコンバートされる。遠投110メートルの肩、100メートル11秒1の俊足が評価されたのだ。堅実すぎる手法ゆえにスポットがあたりにくかった「バント」の評価を高めたのも平野の功績だ。やがて西武ライオンズに移籍して迎えた西武の黄金時代。辻・平野・秋山・清原・デストラーデと続く強力打線において、打者を得点圏へ着実に進塁させる平野の犠打は不可欠だった。

しょっちゅう西武球場に通っていたが、平野の守備位置がなぜ浅かったのかについての答えを本書で初めて知った。外野手にとって自分の頭上を抜かれることほど不本意なことはないし、肩が強ければ、深く守っていても対応できる。しかし、平野は、それでは投手の心理に配慮できていないと考えていた。投手は気持ちよく打たれれば開き直れるが、打ち取ったと思った打球が内野手と外野手のあいだに落ちてしまうと悔いが残り、心理的なダメージとなる。自分より前で落とすヒットを極力減らそうとする意思が、彼の浅い守備位置にはあったのだ。

球団の未来を背負ったドラフト選手たちの影で

肩の良さで知られた平野は、走塁する選手に警戒された。彼からのバックホームではホームインできないであろうと判断した選手が、3塁で留まることが多くなってしまった。それでは自分の持ち味が活かせない。ある時に平野は、両膝をついて捕球することを思い立つ。丁寧に補給する姿をランナーに見せて、これならホームを目指せるとランナーが3塁を回った瞬間、平野は膝を上げて捕球し、バックホーム体制にうつる。回った選手は平野がすっかりバックホームの姿勢に切り替わったことに驚きながら、ホームで刺されてしまう、というわけ。

犠打の名手といえば、巨人の川相昌弘やヤクルトの宮本慎也などが挙げられるが、著者いわく「犠打の名手に脚光を浴びせる時代を作り出したのは平野の功績」なのである。その名手は、はっきり言って誰からも期待されていなかった「ドラフト外」選手として、何かと後ろ向きな扱いを受けながらキャリアをスタートさせていた。球団の未来を背負って入団してくるドラフト選手たちの影で、自分が生きる術をひっそりと探し出した「ドラフト外」選手が築いた、それぞれのストーリーが沁みる。

(文:武田砂鉄)

 

ドラフト外 這い上がった十一人の栄光

著者:澤宮優
出版社:河出書房新社
多くを期待されずの入団だが、自らの可能性と技を磨いて這い上がった、島田誠/平野謙/石井琢朗/長嶋清幸/基満男/上川誠二/松本哲也/野口寿浩/大野豊/清川栄治/加藤初の野球人生。

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