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応仁の乱がおもしろい! 学習まんがで「足利氏」と「室町幕府」について学ぶ

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いま話題の『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一・著/中公新書・刊)を読みました。
面白かったです。2017年6月現在・35万部のベストセラーという実績にふさわしい、知的好奇心をくすぐられる内容でした。

日本の歴史について、わたしは世間並みに興味があるつもりです。
しかし、もっぱら「日本の戦国時代~幕末~昭和初期」の情報ばかりを追って、室町時代より以前の歴史については、あまり関心を持っていませんでした。

『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』を読み終えたあと、室町幕府の将軍家である足利氏の起源について知りたくなった人は多いと思います。

そんな人のために、1時間くらいで「応仁の乱」以前を学べる、とっておきの1冊があります。

学習まんがは早く読める。わかりやすい

わたしが参考にしたのは、『日本の歴史7 南北朝の争い 室町時代』(樋口清之・監修、堀江卓・まんが/学研プラス・刊)という学習まんがです。
鎌倉幕府の滅亡~南北朝の対立~応仁の乱~室町幕府の弱体化~戦国時代初期までを、わかりやすく過不足のないように知ることができます。

学習まんがといえば、子ども向けと思いがちです。
しかしながら、複雑な歴史的経緯を子どもにもわかりやすく説明している「学研まんが日本の歴史シリーズ」は、大人の読者にとっても役立ちます。

室町時代と書いて「弱肉強食」と読む

「応仁の乱」をより深く理解するためには、室町時代における統治システムの知識が欠かせません。
江戸幕府が約260年間も続いたのは「参勤交代」のおかげとも言われていますが、室町幕府にも、各地の守護大名を呼びつける監視制度がありました。

しかし、各地の守護大名が本国を留守にしているあいだに、家来であるはずの守護代や国人(地侍)などに国ごと乗っ取られることが珍しくなく、さらに土一揆を起こした農民に乗っとられてしまう事例もありました。

つまり、室町時代の中期以降は、全国的に政情が不安定でした。
それなのに、武家の頭領であるはずの足利将軍家には、各地の紛争を調停する力が不足していたのです。

「応仁の乱」は、将軍家ならびに複数の有力守護大名における家督争いの収拾がつかなくなったことによって長期化した内戦です。
その混乱に乗じて、日本中の「公家」「武家」「寺院」「地侍」「農民」が、すこしでも多くの利権を得ようとして欲望のままに争いを繰り広げた──それが「応仁の乱」なのです。

初代将軍・足利尊氏とは?

学研まんが『日本の歴史7 南北朝の争い 室町時代』では、鎌倉幕府が滅びて室町幕府が始まるまでの「武家による政治的な空白」ともいえる「建武の新政」時代について、よく整理されています。

後醍醐天皇による「建武の新政」や、天皇家や公家たちの権力闘争である「南北朝の対立」に乗じて頭角をあらわしたのが、室町幕府の初代将軍である足利尊氏(あしかが・たかうじ)でした。

足利尊氏は関東の豪族でしたが、後醍醐天皇の意を受けて、鎌倉幕府に反旗をひるがえして滅亡に至らしめました。
そのあと貴族政権を復活させた後醍醐天皇は、公家を優遇しすぎたことによって、全国の武家から反感を買うことになります。

立役者であるはずの足利尊氏は、なぜか後醍醐天皇から冷遇されます。内心で恐れられていたのかもしれません。
尊氏は、前政権の残党である北条氏を討滅したあとに、かつての幕府があった鎌倉に留まります。

尊氏の動向は「ふたたび武士の政権をつくるつもりか!?」と警戒されて、後醍醐天皇に逆臣あつかいされてしまいます。

南北朝の対立とは?

言いがかりに近いものでしたが、朝廷の臣下である足利尊氏が、天皇から差し向けられた軍とまともに戦うわけにはいきません。

尊氏は、一計を案じます。
当時の朝廷では、二大派閥である「持明院統」と「大覚寺統」の皇族が、10年周期で天皇を譲位しあう取り決めを交わしていました。
しかし、「大覚寺統」出身である後醍醐天皇はその約束をやぶっていたので、ムカついていた「持明院統」出身の光厳上皇が、足利尊氏に手を貸すことになりました。

天皇と対等である「上皇」の後ろだてを得たことにより、足利尊氏は、公家優遇にムカついていた九州や四国の武士たちを従えて、後醍醐天皇から差し向けられた軍隊をつぎつぎと打ち払いました。

権力争いにやぶれた「大覚寺統」出身の後醍醐天皇は奈良へと去りました。そして、京において「持明院統」出身である光明天皇が即位しました。
京(北朝)と奈良(南朝)の対立は、このあとも70年ほど続いたそうです。

功労を認められた足利尊氏は、1338年に光明天皇より征夷大将軍に任命されます。
こうして、足利氏による室町幕府が始まったのです。

第8代将軍・足利義政の時代

「応仁の乱」は、初代将軍・足利尊氏が亡くなってから約100年後の出来事です。
銀閣寺建立や東山文化で有名な、第8代将軍・足利義政の時代です。

このときには、初代将軍の足利尊氏、第3代将軍・足利義満、第6第将軍・足利義教のような求心力は失われていました。
たとえば、次期将軍(跡継ぎ)を決めるにしても、足利将軍家が独断で決めることができなかったのです。

有力な守護大名だった細川勝元が、第8代将軍・足利義政の弟である足利義視を擁立します。
おなじく守護大名の山名宗全が、義政の実子・足掛義尚を擁立します。
次期政権における主導権をめぐって、細川氏と山名氏が10年以上にもわたる不毛な争いを繰り広げるというのが、「応仁の乱」のハイライトです。

じつは、細川氏と山名氏の権力闘争のほかにも、「応仁の乱」は、室町幕府の管領家のひとつである「畠山氏」の家督争いに振り回された側面があります。
畠山氏の家督争いがひどくなったきっかけを作ったのは、リーダーシップ不足でおなじみ第8代将軍・足利義政です。

知られざる英雄・畠山義就

はじめのころ、足利義政は、当主・畠山持国の実子である畠山義就(はたけやま・よしなり/よしひろ)の相続を認めていました。義政は、それを証明するものとして自分の「義」の字を与えたほどです。
しかし足利義政は、そのあと決定を撤回してしまいました。

相続を台無しにされた怒りは激しかったようで、畠山義就はこのあと10年以上にわたって京や河内(現在の大阪)で暴れまくります。

『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』において、「最初の戦国大名」といえば朝倉孝景や北条早雲の名が挙がるけれど、権威をもろともせずに孤軍奮闘しつづけた畠山義就も「戦国大名的な存在」である、と評価されています。

わたしは石川県能登地方にゆかりのある者です。
畠山氏の分家が、能登地方の守護職を務めていたことは知っていましたが、本家に義就のようなヒーローがいることを「応仁の乱」を学ぶことによって知ることができました。

(文:忌川タツヤ)

日本の歴史7 南北朝の争い 室町時代

著者:樋口清之(監修)、堀江卓(まんが)
出版社:学研プラス
南北朝の争いがあった時代の様子を、有名な人物の活躍を中心にまんがで分かりやすく構成。

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