ハウツーが満載のコラム
文字サイズを変更する

石神を救いたい。『容疑者Xの献身』のハッピーエンドを考えてみた

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

わたしには、救いたい人物がいます。

彼の名前は、石神哲哉(いしがみ・てつや)。年齢は三十代後半~四十代前半。職業は高校の数学教師。東野圭吾のベストセラー小説『容疑者Xの献身』の登場人物です。

石神は、ある理由によって「悲しい決断」をします。それは、石神にとって「社会的な死」を意味するものです。

不遇の天才数学者である石神が下した「決断」は、探偵ガリレオこと湯川学(ゆかわ・まなぶ)が「非常に悲しい」と嘆くほどの、大きな犠牲をともなうものでした。

できることなら、石神を救ってあげたい。そのためには、時間を巻き戻すしかありません。

ノーマルエンド(原作の結末)

悲劇のきっかけは、富樫慎二(とがし・しんじ)の殺害です。殺したのは石神ではなく、花岡靖子(はなおか・やすこ)と花岡美里(みさと)でした。

この殺人は、突発的なものでした。元夫である富樫がアパートに押しかけてきた挙句、中学生の美里に暴力をふるったので、母である靖子は、とっさにコタツの電気コードに手を伸ばしました。そして、母娘ふたりがかりで富樫を殺害したのです。

警察への出頭をためらう花岡母娘を見かねたのが、アパートの隣室に住んでいた石神でした。ふたりに代わってアリバイ工作と死体隠蔽をおこなうことを申し出ます。

後日、身元不明の絞殺死体が発見されます。遺留品や定宿に残っていた毛髪などから、警察は富樫慎二の死体であると断定します。『警察組織の謎』(三才ブックス・著/三才ブックス・刊)には、最新の「身元不明者を判別する個人識別捜査」にまつわる説明があります。歯列や治療痕だけでなく、白骨化した頭蓋骨からも顔かたちを推定することができるそうです。

警察は、被害者の元妻である花岡靖子を疑います。しかし調べてみると、花岡靖子と花岡美里にはアリバイがありました。絞殺死体の死亡推定時刻に、彼女たちが映画館やカラオケボックスにいたという物証や証言が、つぎつぎと明らかになります。

天才数学者・石神哲哉がつくりあげた「崩せそうで崩せないアリバイ」という難問に、警察は翻弄されるのです。

当初の捜査では、石神は「容疑者の隣人」にすぎませんでした。しかし、刑事を通じて、石神哲哉の名前が探偵ガリレオこと湯川学の耳に届きます。湯川と石神は、帝都大学理工学部の同期生だったのです。

探偵ガリレオが興味をもってしまったことにより、富樫慎二殺しの真相が明らかにされつつあったとき……石神は花岡母娘を守るために「悲しい決断」をします。こうして『容疑者Xの献身』は、悲劇的な結末を迎えるのです。

花岡母娘が自首した場合

映画『容疑者Xの献身』のラストシーンでは、石神哲哉を演じる堤真一が、望みをくじかれた悲しみのあまり、泣きながら雄叫びをあげます。

石神「どうしてっ……うおぉぉん!……」

時間を巻き戻します。

石神「( ゚д゚)ハッ!? ここは……俺の部屋だ」

いまの石神は、アパートの自室において隣(花岡宅)の様子をうかがっています。壁の向こうから、暴れるような物音が聞こえるからです。

騒ぎが静まってから、石神は花岡宅をたずねます。殺人事件の隠蔽に手を貸した石神ですが、じつは原作では「自首するのならそれでもいいと思いますが」と言っています。

花岡靖子が自首をためらったのは、娘の美里も共犯だからです。電気コードによって富樫の首を絞めるとき、富樫の手首を美里が取り押さえました。状況からも、富樫の手首に残る「指の形をした」内出血のあとからも、美里の関与を言い逃れることはできません。

石神を救いたい立場としては、花岡母娘には、すみやかに警察へ出頭(自首)してもらえると助かります。ノーマルエンド(原作の結末)に比べれば、靖子や美里の罪は軽くなるはずです。

しかし、石神にとっては「バッドエンド」なのです。たとえ元夫の暴力に対する過剰防衛と判定されたとしても、花岡母娘が、失職や退学や逮捕起訴などの社会的制裁を免れることができないからです。

それではノーマルエンドと大差がない。石神の社会的身分は救われても、心が救われません。

ハッピーエンド(凶行を阻止)

石神「どうしてっ……うおぉぉん!……」

ふたたび、時間を巻き戻します。

石神「( ゚д゚)ハッ!? ここは……俺の部屋だ」

石神の自室です。壁の向こうからは、暴れるような物音が聞こえます。原作小説では「防音性が高いアパート」とされていますが、すべての音が遮断されるわけではないのです。

映画『容疑者Xの献身』では、靖子たちと富樫慎二がもみ合っているドタバタという物音が漏れており、隣に住んでいる石神が思わず立ち上がり、壁越しに様子をうかがっているシーンがあります。

このとき石神は、全力ダッシュすべきです。靴をはかずに、隣の花岡宅まで走って、インターホンのチャイムボタンを連打したり、玄関ドアを叩いたりして、さらに「どうしました! 何かあったんですか! 警察を呼びましょうか!」などと騒ぎたてれば、富樫と花岡母娘どちらも思いとどまるでしょう。

絞殺されかけた富樫は「警察に訴えてやる!」と息巻くかもしれませんが、美里に激しい暴力を振るったという負い目もありますから、大事(おおごと)にはできないはずです。

最後に

「富樫慎二を殺害する夜」を乗り越えることができれば、やがて現れる工藤邦明(くどう・くにあき)が頼りになりそうです。

「あの夜」を乗り越えたとしても、富樫慎二は花岡母娘につきまとい続けるでしょう。しかし、やがて工藤邦明が靖子の前に姿を現します。

工藤は四十代の男性です。花岡靖子が赤坂や錦糸町でホステスをしていた頃からの常連客です。印刷会社を経営しており、穏やかな性格の頼りになるオトナの男です。靖子に惚れており、やがてプロポーズするのですが、原作では思いを遂げることができませんでした。

富樫を殺害していなければ、うしろめたいことがない花岡靖子にとって工藤からのプロポーズを断る理由がありません。富樫慎二はヤクザではなく、本質的にはヘタレなので、靖子に相手がいるとわかれば退散するはずです。会社経営者の工藤ならば、頼りになる弁護士の心当たりもあることでしょう。

工藤と結婚することになれば、いずれ花岡母娘はアパートを退去するでしょう。石神は失恋するわけですが、もともとは彼女たちの幸せをいちばんに願っていました。

原作においても、靖子へ託した手紙のなかで「彼と結ばれることは、貴女と美里さんが幸せになる確率を高めるでしょう」なんていう、数学者らしい不器用なエールを送っています。

これにて、石神哲哉は救われました。

(文:忌川タツヤ)

警察組織の謎

著者:三才ブックス
出版社:三才ブックス
警察組織の内情・階級・給料格差など知られざる警察官の本音を多数収録。デカの捜査力、特殊警察の実力、覆面パトの見抜き方まで、読めば明日誰かに教えたくなる警察組織の謎をまとめた1冊。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • LINEで送る

関連記事